壱、めいめい研にようこそ
1-1
この大学の門をくぐるのは、いつぶりだろう。
就職して八年が経ったから、初めてこの門をくぐった時から十二年の歳月が流れたことになる。あの時より化粧も覚えて小綺麗になったし、処世術も身につけて幾分か腹が黒くなった。たぶん、いや、確実に。私の脇を颯爽と過ぎ去っていく、溌溂とした学生たちの背中を目で追いながら、私は月日の流れを噛み締めた。
当時、〝凱旋門〟と呼んでいた石門の下をくぐると、追ってやってくる懐かしい青春の記憶が、微かに脳裏を掠める。誰も知らない土地にやってきて、遅くまで荷造りを解いた前夜。入学式当日にも関わらず、ひどい疲れを残していた私は、微睡みの中、この大きな門をひとり見上げた。
その行動にきっと意味はなかったけれど、今こうしてあの日を思い出すということは、私にとっては意味のある行動だったんだろう。
だって……、いまもまた、同じように私はこの門を見上げているのだから。
「ここ、か」
入行許可証を首からぶら下げて、私は部屋の扉の前に立っていた。
G513、という味気のないゴシック体で書かれたプレートを見て、紙切れのメモとを交互に見合わせる。ここ、なんだよね……。左右を見回しても廊下はひっそりと静まっていて、本当にココが目的地であるかどうか心配になってくる。
「ノックするわよ?」
私は手の甲を扉に近づけ、中にいるかもしれない誰かに声を掛ける。
「―――――どちらさま?」
背後から不意に声が飛んでくる。私は驚き、手を降ろした。
「何か御用?」
そこには背格好の小さい少女が佇んでいた。
斜視の掛かった危うい目が私を見上げる。
「突然お邪魔してごめんなさい。このG513号室にいらっしゃる〝ナシロ〟さんという方を訪ねてきたんです」
私は緊張気味に早口で答える。
少女は表情ひとつ変えず、私を見つめていた。
自分よりうんと年の離れたその少女は、およそ大学生と思えない容貌をしている。後ろの壁の手すりがちょうど胸のあたりに来ているから、身長は……小学校高学年の平均身長くらい。叔母のとこの姪っ子と同じくらいだ。学生御用達カナルブランドのリュックサックがランドセルのように見える。
ただ、あどけなさの残るその童顔からは想像もつかないほど大人びた声は小中学生のそれではないと見た。
私は半ば失礼を承知で尋ねてみた。
「あなたはこちらの学生さんですか?」
だが、彼女の関心はすでに私の質問にはなく、私自身にすり替わっていたらしい。私の体を上から下に舐めるように見ると、思い立ったように胸ポケットから手のひらサイズのリングノートを取り出した。
「お姉さん、すごく魅力的」
そして、取り出したメモ帳に何かを書き始めた。
「『髪の綺麗な高身長の女性、低姿勢、本当は腹黒い』」
リングノートを覗き込むと、少女は言いながらその言葉通りに書き留めているようだった。
「―――――は?」
私は眉根をひそめる。
「『怒り顔、せっかくの美貌が台無し、育ちの悪さが現れる』」
「なんですって……?」
「『自分を中心に世界が回っている、と本気で思っている』」
「ちょっと、アンタねえ……!」
「『勝気な性格。人に弱さを見せない。それが強さだと信じている』……」
少女はふとペンの動きを止める。
「お姉さん、面白いね」
私は、美貌が台無しと言われながら、何とか怒りを鎮めようと表情筋に力を込める。
「……アンタ何のつもり?」
「メモしただけ」
「メモの内容に問題があるのよ!」
駄目だ、苛立ちは収まってくれそうにない。
「人の事散々に言って……、何のつもり?」
「私は、お姉さんの名前はひとつも出してない」
「は?」
「つまり、お姉さんは自分のことを髪が綺麗で、高身長で、美人だと思っているということ」
私は鼻白んで、言葉に窮する。
「何度も言う。私はメモしただけ」
「この――ッ」
言葉の代わりに、手が出そうになった。
「屁理屈言ってんじゃないわよ!」
「でも、お姉さん、好き。魅力的よ」
「アンタね―――――!」
無表情に「好き」と言う彼女の不器用さに、良心がひょっこり顔を出す。
彼女は、私と遊びたいだけだ、私を翻弄させて面白がってるだけ。そう思ったら、わざわざ怒ってやることの方が馬鹿らしく思えた。とことんウチの姪っ子と似ている。
「―――で、なんなの。私をからかって――アンタはこの部屋と関係があるの?」
私は投げやりな口調で彼女に問い掛ける。
「ある」
「どういう関係? 私はここにナシロって人がいるって聞いて来たんだけど」
「
「研究所?」
「そう、研究所」
「研究所? どういうこと? ナシロって人は研究者なの?」
「え?」
「え?」
少女はじとーっと目を反らした。
彼女は……、何かを隠そうとしている。
「――――アンタのいう研究所って一体何?」
「……」
「研究所ってことは何かを研究してるのよね?」
「……」
「所長のナシロって人が、この研究所を設立したの?」
「……」
「アンタ、私に隠し事をしようなんて思わないでよ」
私は袖を捲って、彼女の白い頬をつまんで捻った。
姪っ子が悪さをした時によくやってやるのだ。私は小学生の姪の姿を彼女に重ねながら、容赦なくその頬を引っ張る。
「
彼女は、がま口ガエルみたいな口で訴える。
「
「離してやるもんか。ほら、言いなさい。ここで、アンタ達は何の研究をしているの?」
「
「いいの? アンタの頬っぺた、このまま取れちゃうわよ?」
「
「じゃあ、言いなさい」
「
はわした……? あ、騙した、か。
「私が何を騙したって言うのよ」
手を離すと、彼女は赤くなった頬を痛々しくさすって、疑いの目を私に向ける。
「G513、はいわば秘密の合言葉のようなもの」
「どういうこと?」
「この大学にG棟513号室という部屋は存在しない」
「存在しない……? でも、ここにそう書いてあるじゃない」
私は振り返って〝G513〟と記されたプレートを指差す。
「そのプレートは名城が作った。この部屋は昔使用されていた合同研究室。数年前に新しい研究棟が建てられてここは用済みになった」
確かここに来る途中、装いの新しい綺麗な真四角の建物があった。恐らくあの建物がそうだったのだろう。
「下の階にある案内図にも、この部屋には斜線が引かれている。使用されていない証」
それは見ていなかった。〝G513〟という字面だけを見て、きっと五階の部屋のどれかだろうと思ったからだ。そして、実際にそうだった。
「どうして、そんなことをしたの?」
「それは名城がやったこと。私は知らない」
「その、名城っていま部屋にいる?」
「知らない」
彼女は無表情な顔つきで、きっぱりと言った。
「じゃあ、本人に聞いてみるしかないわね」
これ以上、彼女から何も聞き出せない。痺れを切らした私は、扉のドアノブに手を掛ける。
しかし、袖口を掴まれたことで、私の腕はピタリと止まってしまった。彼女が、長袖のブラウスの袖を強く引っ張る。
「ダメ」
少女は明らかな敵意を持って私を見つめていた。
私がグッと腕に力を入れると、彼女はその何倍もの力を込め、そうさせまいと反対方向に引っ張る。私もムキになって、その手を離せと力を入れる。だが、彼女の腕はピクリとも動かない。コイツ、意外と力あるのね……。
しばらくの間そうしていたが、劣勢と見た私は反対の手で彼女の頬に手をやって、まだ腫れの引いていない頬をつねってやった。
「あふっ……!」
思わぬ追撃に
「ほ~ら~! 早く離さないと、アンタのほっぺたがどうなっても知らないわよ」
「
「離せ!」
「
「離せ!」
「
「この……! 離せって言ってん……でしょ!」
私が最後の力を込めて腕を引いた瞬間だった。汗ばむ彼女の指の間をブラウスの袖が滑って、私の拳が勢いよく放たれる。
「川名? いったい何を騒がしくして―――――ブフォッ!!」
突然開いた扉から現れたその男の鳩尾に、私の拳が突き刺さる。
私にとって嬉しいことが二つ重なった。
一つは、その扉が開かれなければ、私はその重厚な鉄扉に拳を強打していたこと。二つは、G513号室の扉を開いた男がどうやら私の探し求めていた人物―――ナシロだということだ。
男は、その場に膝を突いて脇腹を押さえる。
首から下げた名札に、彼の憎らしい顔写真と、肩書きらしいものが目に入る。
『命名研究所 所長 名城文雄』
この男に、違いない。
私の探し求めていた、人物。
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