めいめい研は我にあり!
白地トオル
追憶
―――――ちはやちゃん!
母の呼ぶ声がする。
―――――ちはやちゃん、そう、こっちよ!
私はよたよたと覚束ない足取りで母の胸の中に飛び込む。
―――――わあ、偉いわね! ちはやちゃん! もう一人で歩けるようになったのね!
母が私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
―――――お父さん! ちはやちゃんが歩けるようになったわ!
居間で寝転がってテレビを見ていた父が、急いで庭先に駆けてくる。
―――――本当か! ちはや!
私はキャッキャッと嬉しそうに笑った。
―――――将来は、陸上のオリンピック選手間違いなしね!
父が母の腕から私を抱きかかえる。
―――――当たり前だろう。私たちの子なんだから。きっと素晴らしい陸上選手になってくれるよ。
目の前に父の大きな顔が飛び込む。
―――――ちはや……! 君は今日、一歩を踏み出した! それは小さな一歩かもしれないが、君の人生にとって大きな一歩になるだろう!
父は誇らしげに言った。母が、まあ、と口元を押さえて微笑む。
―――――お父さん、またテレビの影響ですね。
ブラウン管テレビの中では、モノクロの宇宙飛行士がはためく国旗を月面に挿している。
―――――ちはや、自分の足で歩き出すようになれば、いくつもの困難が君に降りかかる。足を止めたくなる時もある。後ろ歩きしたくなる時もある。でも、前に進むんだ。立ち止まるより、振り返るより、前に進んで見える景色の方が、ずっと美しい……!
父が私の小さな手をぎゅうと包む。
―――――お父さんは、ちはやが歩んでいくこれからの景色が楽しみでならないよ。
*
―――――ちはや! 走れ! 行け! そこだ!
私は手を振り切って、最後の曲がり角、際どいインコースを攻める。
―――――行け、行け! ちはや!
父の声援が風を切って耳を掠める。視界の端に、飛び跳ねて声援を掛ける母の姿も見えた。
―――――そこだ! 駆け抜けろ!
父の声がどんどん離れていく。
私は目の前のゴールテープに向かって、必死に足を蹴り上げる。風圧に体がのけぞりそうになる。胸が膨らみ、顎が浮き上がる。
―――――ちはや!引け! 顎を引けぇ!
たぶん、その声だけはしっかりと聞き取れた。私は、父に散々習った走り方を思い出し、上体を少しずつ低くしていく。体が軽くなる。風の流れが変わった。
―――――そうだ、いいぞいいぞ! 行け! 行け! 行けぇぇぇ!
父の掠れた叫び声は聞こえなかったけれど、私は声援に背中を押され、ゴールテープを切っていた。
短く荒い呼吸を繰り返し、息を整える。額にじわじわと追う汗をぬぐい、私は駆け寄ってきた先生の手に引かれて、一着の赤い旗の下に体育座りをした。遠くの白いテントの下で、父が私の名前を叫んでいる。
私ははにかんで、小さくピースサインをした。
*
―――――ウソ! ちはや、また学年一位?
友人が私の成績表を覗いて、嬌声を上げる。
その声を聞きつけたクラスメイトが続々と集まってくる。
―――――ちはや、一位だって!
―――――ちはや、マジ? 一位? すご!
―――――すごいね、ちはやちゃん! 天才じゃん!
私は急に恥ずかしくなって、成績表を机の中に仕舞い込んだ。
―――――ほら、隠すなって、ちはやぁ……!
友人の手を振り払うと、机に伏せ、「もうやめて」と泣き声を上げる。
―――――ちはや? 一位なの? すげぇじゃん。
囲む女の子を分け入って、男子が私の席にやってくる。
―――――あ、相田。ちはや、すごくない? ほとんど百点だって。
相田くんが、私を賛嘆の眼差しで見ているのが分かった。ずっと顔を伏せている訳にもいかないので、私は赤らんだ顔で彼を見上げた。
―――――ちはや、成績表、俺にも見せてよ。
私は言われるがまま、彼に成績表を差し出した。
―――――すげぇな。数学以外、ぜんぶ俺よりいい点数だ。
相田くんは頭が良かった。家柄が良く、地元でも有名な進学塾に通っていた。特進クラスではとりわけ成績が良く、貼り出された順位表の、彼の名前にはいつも金の王冠が被せられていた。
―――――ちはや、俺と、京華高校を目指そうよ。
キュッと心臓を掴まれる。相田くんにそんなことを言ってもらえるなんて思いもしなかった。
京華高校は間違いなく、県下で一番の難関校だ。内申点はともかく、当日点で合格ラインを切れるかどうかというところ。私にとって、そして、相田くんにとってもハードルは高そうに見えた。
―――――お前となら頑張れる気がするよ。
相田くんの眼差しは真剣そのものだった。
―――――それに、陸上続けるんだろ? あの高校なら、ちょうどいいじゃないか。俺もサッカーで選手権に出たいからさ。
彼が私に握手を求めて、手を差し伸べる。
―――――一緒に、目指そうぜ。
クラスメイトが私たちを囃し立てる。彼らの声は、赤くなった私の耳にはもう届いていなかった。
*
―――――チハヤ先輩!
私はドアノブに掛けた手を降ろし、振り返る。
後輩の眼にはうっすら涙が浮かんでいた。
―――――さっき、監督に聞きました。チハヤ先輩、秋に早期退部するって。
なんだ、そのことか。情報遅れてるね。そう言うように私は微笑んだ。
―――――陸上、やめるんですか? 先輩は、将来を期待された選手です。私や他の先輩方と違って、チハヤ先輩は選ばれた選手なんですよ? 三年生になれば、大事な春の国体だってあります。なのに、どうして……。
私は部活用のエナメルバッグを足元に降ろし、青いカラーベンチに腰掛けた。
ゆっくり後輩を見上げて、退部の理由を端的に述べた。
―――――受験?
私は頷いた。
―――――受験って、先輩……、もしかして、国公立を目指すつもりですか……?
後輩の目つきが変わった。涙の引いた目に、今度は、血が走っていく。彼女は、信じられないものを見る目で私を見下ろし、冷め冷めと言葉を吐き捨てた。
―――――先輩、可笑しいです。一芸制度、知らないわけじゃないんでしょう?
彼女の言う「一芸制度」とは、私たちの通う京華高校独自のシステムだ。学生が励むべき勉学以外に、スポーツ、音楽、芸術、その他の活動により一定の成績又は社会に大きな影響を及ぼした者に、京華大学への無試験入学及び学費の無償が保証される。
私は今年の春、100メートル走の成績が特に優秀であると認められ、すでにこの権利を有していた。受験という茨の道を歩かずとも、私の目の前にはすでに綺麗なレッドカーペットが敷かれていたのだ。
―――――京華大学の陸上部なんて、入りたくても入れない人が圧倒的に多いんですよ? 先輩だって、そのことは十分分かってますよね?
京華大学陸上部は全国屈指の強豪校だ。国内外から「我が一番」とお国の陸上自慢が集まってくる。また強大な資金力によって建設された練習施設は日本代表のナショナルトレーニングセンターとしても利用されており、そうした環境が選手たちを更なる高みへ、向上心を育んでくれる。
彼女の言う通り、陸上部は内部進学生の中でも競争が激しく、部に入れるのはほんの一握りだ。
でも、私は以前から、短距離担当のヘッドコーチから熱烈な誘いを受けており、内定は確実だった。他の部員には黙っていた。でも情報はどこから漏れているか分からない。気づけば、私が陸上部に入ることは、皆の間で既定事項のように語られていた。
―――――どうして、受験するんですか? 陸上、やめるんですか?
私は首を強く横に振った。
―――――だったら、どうしてですか……?
陸上はやめない。
いつか父と約束を交わしたように、私は前に進むことを選んだ。国公立に入って、弱小の陸上部に入ったって、私自身が何かに変わってしまう訳じゃない。必ずこの世界で日本一、いや世界一になる自信がある。私が何者かに変わってしまわない限り、歩んできた全ての歴史と、刻まれてきた記憶が、私を栄光の大道に導いてくれる。
でも、どうしてだろう。
私の前に道はいくつもあるのに、どうして受験勉強という道を選びたいと思ったのだろう。
県立流渓大学―――偏差値59、決して難関とは言えない、中堅大学。
誰にその名を教えられた訳でもないのに、私の意識はこの大学に引き寄せられていた。
だから、前に進む。
この大学に入学して、何かを掴むまでは、前に進むしかない―――――自分の心を突き動かす謎の正体を明かすために。
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