第28話 6月10日(2) セラピスト

 夕食のあと、直哉だけ園長に呼ばれた。事務仕事をしている園長の部屋に入るのは初めてではないが、毎度緊張する。

「千帆ちゃんと仲良くなったみたいで、私も嬉しいわ」

「あ、はい」

 立ったままで、直哉は何を聞かれるかと構えながら答えた。

「貴方もここに来た時より変わったわね。目つきも優しくなったし、笑顔を見せてくれる日のほうが多くなって。今まで神経張りつめてる感じだったもの」

 直哉も改めて言われて気付いた。あの不良生徒を除けば、四六時中神経を張り巡らせていることはなくなった。自分でも勘が鈍るのを恐れるほど、新しい経験に夢中になるほうが多くなっている。


「あの子の絵、見たよね」

「はい、絵がうまいなと思いました」

 園長は「そう」というと少し声のトーンを落とした。

「あの子が描いたのは、自分が虐待されてる時の絵なの」

 思わず「えっ」と聞き返した。よくわからない。笑っている人がいたのに、どういう状態の絵なのだ?

「黒くて長い髪の笑っている人は母親。手に持っていたのは火のついたタバコなの」

 手に書かれた棒の先がオレンジだったのは燃えていたからで、灰色の線が出ていたのは煙だったのか……

「脇に書かれてた、黒い塊があの子本人で、赤い点はやけどの跡」

 何も言えなかった。それまでほほえましく見てしまっていた自分が悔しく思えた。

「真っ黒に塗りつぶしてるのは、熱くて痛くて怖くて、でも声を出すと殴られたりたたかれたりして怒られるから必死で耐えてたのよ。自分の姿はちゃんと描くことができないの。否定され続けてきたから、自分を認識できないみたいでね。それにあの子の母親、やけどの跡を見られないようにいつも長袖を着せて、人にも会わせなかったし、ここに来たときはトイレもまともにできなかったのよ。食事も手づかみで何も教えられてこなかった。もう少し早く私たちが動いていれば、あの子の心の傷がもっと広がらないうちに保護できてたかもしれない」

 園長の顔はもう笑顔ではなかった。後悔の表情が滲んでいた。


 少しの間を置き、園長が話をつづける。

「でも今こうしてあなたと一緒にいて、笑うことができたってことは、私達にとって望みなの。あの子があんな絵を描くのは、恐怖体験を言葉にできない分、精神療法みたいなものかしらね、絵で昇華してるの。今は怖かったときの絵しか描けなくても、いつか明るい色の絵を描くことができるはず」

 申し訳ない気持ちでいる直哉を察したのか、園長が優しく笑いかけた。

「腫れ物に触るような扱いをする人より、あなたみたいに対等に接する人があの子に必要なのかもしれない。あなたになら心を開いてる。来たばかりでこんな事を頼むのは間違ってるかもしれないけど、あの子と私たちを繋いでほしいの」


 まっすぐに見つめられ、逃げ出したいくらいだった。あ、あ、としばし言い澱んだ後、何とか答えを言葉にした。

「俺、そんなことできない……俺自身、人の気持なんかわからないのに……」

「大丈夫。直哉も一緒に知っていけばいいのよ。あなたのままで、普通に接してくれれば。何かあれば私たちを頼ってくれればいいから」

 肩に手を置き、にっこり笑い頷く園長。なんとなくそれだけで、大丈夫かもしれないという気持ちが湧いてきた。




「……っていわれた」

 部屋に戻り、直哉は真一に園長に言われた話を聞かせていた。

「すごいじゃない、頼られるなんて」

「でも俺、どうやって人と付き合ってくかなんて分からないよ、学校の奴らだってまだよく知らないことあるし」

「だからじゃないかなあ」

 どういうことか理解できなかった。どうして? と聞き返す。

「いきなり、純ちゃんみたいな子が千帆ちゃん連れ回して、知らない人たちと一緒に仲間に入れてーなんて遊べると思う? それとかあれはああだよ、これはこうだよってせわしない子とずっと一緒にいれると思う?」

 首を横に振る直哉。

「こんなこと言って気を悪くしたらごめんね。直哉もまだこの世界のルールをよく知らない。僕も知らない。だから似てるんだよ。無理に人と合わせようとしないし。でもちゃんと状況は把握できる大きいお兄さんだし、詮索もしないし」

「うんまあ、純とくらべれば大きい」

「一緒にこの世界を知る仲間として、千帆ちゃんは直哉がちょうどいいんだと思う」

「そういうもんかなあ……」

 直哉は天井を仰ぎ見た。


 一つため息をついて、真一にすがる。

「なんかあったら助けてよ、もし変なこと教えちゃったら大変だ」

 真一は笑いながら大丈夫だよと励ました。それでも直哉は内心なぜ自分なのか不思議でしょうがない。愛想がいい、頭がいい、やさしい真一のほうが適任じゃないのだろうか。

「ゆっくりこの世界になじんでいけばいいよ。たまには僕も仲間に入れて」

「そんな、毎日お願いしたいくらい」

 心配しすぎ、とまた真一が笑った。いつも一緒にいなきゃいけない義務は無いんだから気楽にした方がいいよとアドバイスを貰った。

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