第8話 4月10日 2人目の誕生日


 直哉は昨日から大部屋に移動した。まだ固形物が食べられない配慮から、普通の食事が出る患者と一緒にはならなかった。自分が満足な食事ができないのにいい匂いが漂う中ぱくぱく食べる他人を見るのは辛いだろう、と。

 あまり動けないタイプの患者が同室だったのと日本人離れした外見もあって、直哉に干渉する者はおらず、また直哉も周りに関心を示さなかった。


 回復力は目を見張るほど早く、部屋が移ったと同時にリハビリも始まった。それまでの寝ながらできる手足の上下運動から立って歩くことになる。

 最初は松葉杖の扱いすらおぼつかない様子だったが、二日目になり扱い慣れてくるとつい動きを早くしてしまう。

 案の定体のどこかが痛むのだろう。時折うっと顔をしかめて声を絞る。あれだけ傷を負ったのだから当たり前だ。でも休憩もせずにすぐ黙々と歩行を再開する。

 リハビリスタッフが「傷口が開いたら大変だから無理しないように」と注意をしても、言葉を覚えたオウムのように決まって「大丈夫です」と答えるだけだった。




「何度も足を運ぶことになってしまってすみません。いっぺんにお話すればよかったですね」

 もう1人の少年の件で連日の訪問になってしまったことを、ナースセンター長が原島園長に頭を下げて詫びた。

「気にしないでください。こういうケースの方が珍しいんですから」

 今井が先日わずかに成立した会話の内容を伝えた。

「あの子にはあまり深い話を聞けないかもしれません。また錯乱する可能性があります。私もまだ聞けていないんです」

「ええ、大丈夫。最初からすべて話してくれる子なんていませんよ」

 今回は教育長の苗字から拝借し、名前は園で働く杉村医師の妻、真子から一字とって”杉村真一”と命名させてもらうことにした。

 たまたま苗字が一緒の杉村医師は新婚1年目ということもあり「一足早く自分の子供ができたみたい」と、彼の身が収まった安堵と冗談を交じえて喜んでくれた。



 直哉がリハビリセンターから戻る途中、個室に一人の少年が点滴ポールを引いて入ろうとしているところに出くわした。引き戸を開けるだけの動作がひどく危なっかしい。細身で黒髪、あまり顔色はよくない。もしかしてこの前大騒ぎしたっていうあいつか? 

 目のぱっちりしたまだ幼さの残る顔立ちだ。こっちが見ている事に気づくと直哉の視線の鋭さに気まずくなったのか、ふらつきながらも部屋の中に逃げるように入ってしまった。

 直哉も視線を下げ、ちょっと急ぎ目にカツカツと通り過ぎていった。



「あら、直哉君」

 まだ自分が”藤沢直哉”という人間になったことに慣れず反応が遅れた。目の前にいたのは原島園長と今井、杉村医師だ。

「こんにちは。頑張るね」

「頑張るのはいいけど大丈夫? 無理するとかえって悪くするよ」

 今井が心配してくれた。ここでもやはり「大丈夫です」が定形回答になっていた。


 そのまま別れて3人の行く先を見ていると、あの少年の部屋に入っていった。

 完全に姿が見えなくなると再び歩みを始めた。歩きながら、もしかしてあいつも同じ所に行くんだろうかと考えていると、うっかり自分の部屋を行き過ぎてしまっていた。



 

 301号室のベッドに横たわる少年の左側に3人の大人が並ぶ。怖がっている感じで目線を合わせてくれない。一方的に挨拶や紹介をしたり、風の子園がどういうところかを話したりしてみる。

 その流れで直哉と同様、彼に新しい名前を告げた。反応はない。気に入らないのではない。ただ不安なのだ。ここがどこか、この後どうなるのかも見えず大人に見下ろされているのだから。

「あの……」

「なに? 遠慮しないで」

 喋るのも恐る恐るといった小声。何に怯えているのか。

「その家、どういう家なんですか?」

 家の説明は名前を告げる前に言ったはずだが。

「子供が集まって、どうするんですか?」

 すかさず園長が優しく答える。

「他の子と同じように、普通に学校に行ったり、遊んだりして暮らすの。みんな家族みたいなものよ。たまにボランティア活動したり、近所の人とイベントをやったりするの。みんないい子達ばかりだからきっとすぐ馴染めると思うわよ」

 少しだけ不安のとれた顔になった。

「そうですか」

「早く良くなってね。真一くん。みんな待ってるわよ」

「はい」

 その瞬間少しだけ笑顔を見せた。なんて可愛い顔をする子だろう。いままでの怯えた表情が嘘のようだ。周囲は安心した。歳も今度は答えてくれた。14だという。こんな偶然があるんだろうか……あの子と同じ年齢だ。



 ナースセンターに戻る途中、

「あの子、虐待を受けたような跡があるって言ってましたね」

と、園長が杉村医師と今井に確認してきた。もう何年も前のものであるが相当な傷を負ったのにろくに治療も受けさせてもらえなかったのが伺える。

「はい、不自然な傷が……あ、古いもんなんですけどね。全身にあるんです」

「どんな理由か判らないけど、普通に話す限りはいい感じの子だね」

 二人ともそれには同意した。

「だけど無理にそうしているところがあるかもしれないよ。怒られないように、痛い目に遭わないようにいい子を演じてるとか。『素直に言う事聞く奴だ』って思わせればしめたもので、周りも目をつけないし面倒ごとにならないでしょ。たまーにいるのよ。解ってわざとやってる子が。自分の感情を殺しちゃってねぇ。いつもにこにこして嫌なことがあっても我慢するの。あの子も今まで怖がってたのに、途中から表情が変わったでしょ。私が園長だって知って、追い出されないよう嘘でもいい顔をしてるのかも……なんて、考え過ぎかしらね」

 杞憂であればいいけど、と園長は笑った。杉村も今井もそういう視点があることに感心し「勉強になります」と返した。

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