第3話 4月4日(2) 「アカイ君」

 ナースセンターでも彼のことは注目されていた。髪が赤いので「アカイ君」とあだ名をつけられていた。

「でもよく生きてたよね、運がいいって言うかさ。内臓破裂で骨折だらけで不思議だわ」

「しっかし最近のガキも手加減知らないよねー、人殺しだよ」

「この前だってオジサンが暴行受けてたじゃん、同じ奴じゃないの?」

 噂話をしているとセンター長がやってきて、勝手なことをやたら口にしないよう軽く注意した。


 センター長が今井という女性看護師に声をかけた。アカイ君の担当にとのご指名だった。以前別の病院で小児科にいたこともあるので、状況がはっきりわかるまで精神面のケアという点からも彼女がよいだろうということで決められた。

 それに毎日同じ顔が訪ねてくる方が、時間をかければ打ち解けてくれるだろう。慣れてくれれば話が聞きだせる期待も込められていた。



 カーテンの開く音で目をあけた。

「こんにちは」

 先ほどの人たちと違う顔……彼はじっと女性を見つめた。今井は事前に話は聞いていたものの、片目だけでも赤い眼でじっと見据えられるとそらしたくなる心地悪さを感じてしまった。ここで押されるものか。

「あなたの担当の、今井です。何か困ったことがあったら、これを押したらすぐ来るからね」

 視線をそらす口実のようにして、ベッドの上に下がっているボタンを引き寄せて彼の脇へ置いた。

「気分はどう?」

 返答の一言一句に神経を配る。

「……悪くないです」

 表情一つ変えず、ゆっくりとした口調で答える。

(言葉も日本語だし、こっちの言う事も理解しているみたいだ)

 まだこちらをじっと見ている。

「内臓がひどいダメージで、ご飯はまだしばらく食べられないの。点滴をしてるから大丈夫だからね。もし食べられるようになったら、何が食べたい?」

 視線を外して真上を見つめる。考えているようだ。しばらく沈黙したあと「何も食べたくない」と答えてきた。

「それじゃあ元気になれないよ。ちゃんと食べなきゃ。スープだったらどう? 元気になったらおいしいの食べられるよう頼んでみるね」

 笑いかけて見るが向こうはまたこちらに視線を合わせ、表情を変えない。負けずに見返してみるが、思わずひるんでしまうような鋭い目だ。まるで鷹や鷲が獲物を一点に見据えているような。冷酷さすら感じた。

 目の力に負け、とうとうそらしてしまった。カルテに体温や機械の数値を書き込む作業に戻る。


 カルテの記入が終わると、また話をしてみる。目を合わせなくてもいいやと鼻の辺りを見た。

「君どこから来たの?」

 その質問に一瞬表情が変わる。聞かれたくないことを聞かれたようだ。今度は返事がない。目線をやや下にそらした。

「おうちに連絡しないと。心配してるよ」

「ありません」即答だ。

 今自分が聞いたことが何かの間違いかと、「え?」と聞き返してしまった。

「あったとしても、多分もうなくなってます。誰もいません。逃げてきた。名前もないです」

 カルテの隅に急いで走り書きをする。一体何があったのか。これ以上聞くことは今は無理かもしれないが、一か八かだ。何か手掛かりが出てくれれば……

「お名前、ないの? じゃあ、そこではなんて呼ばれてたの?」

 彼から返ってきたのは返答でも何でもなかった。

「……ここはどこなんですか」

 ここはどこってどういうことだ? 病院だということすら分からないのか?

「ここは、その……病院だよ。東京の」

「東京? 東京って…………日本国?」

 どういうことなのだ? やっぱり日本以外から来たのか? まさか密入国なんてことは……。


 彼はしばらく考えて自分で答えを見つけたようだ。ふっと小さく笑った。何だ、今の笑いは。

「日本じゃないところから来たの?」

 心臓が高鳴る。平静を装いながらすかさず尋ねる。でもその後彼は何も答えなかった。ただじっと天井を見つめていた。ぼんやりと。その眼は先ほどと真逆で、腑抜けた、といった方が正しいだろうか。

 深意のわからない返答に戸惑いつつ、今の会話も念のため用紙の端っこにとどめる。


 一通り検診がおわると、就寝時間なので電気を消して出て行った。再び一人になった暗い部屋で、彼は何を思っているのだろう。今井は警察へ報告しようと、会話を清書しなおした。



 担当刑事に連絡先を聞いていたので直接かけてみる。

「遅い時間に申し訳ありません。今いいですか? 彼ちょっとだけ喋ってくれたんですよ」

「いえいえ大丈夫ですよ、ご連絡ありがとうございます。何か手がかりになりそうなこと言ってましたか?」

「うーん、日本語は普通に話すんですけど、ここはどこって聞かれて東京の病院と答えたら『日本国?』っていう返し方をしてきたんです。普通そんな言い方しないだろうなあと思って。外国から来たのか聞いたら何も返してくれないし」

「あの子日本人ぽい外見してないですからねぇ、密入国ですかねぇ」

 刑事さんも自分と同じことを考えていたか、と意見の一致にどこか安心感を覚えた。でもまさかそう思いますとはいえないので、「普通に日本語喋ってましたよ」と彼をフォローする発言にしておいた。


「あともう家はないって言ってました。あっても誰もいないだろうし、そこから逃げてきたと言ってます。あ、そうそう、気になったのが今回出来た傷以外に、たくさんの古い傷跡が体中にあるんです。そこで虐待を受けていて逃げてきた可能性もあります」

 刑事は電話の向こうでふーっとため息をついた。捜索願も不明児童のリストも過去数年遡ってみたものの、この少年に該当しそうな人物は当たらないし、児童相談所をはじめ各施設からも情報はなし。これだけ外見に特徴がある子なら、どこかで誰かの記憶に引っかかっていても良さそうなものなのに。

「これほど手がかりのゼロなのも珍しいですよ。参りました。また何か言っていたらお願いします」


 この日はこんなことしか報告できなかった。また明日、あの子と喋ってみよう。今井は彼の体調とは別に、会話や表情などの記録するノートを作ることにした。

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