第32話 僕は君との約束を、守ることができたのかな。

 彼女の口からひとつの言葉が漏れたのは、僕が福南に小説を見せてから一週間が経ったころだった。

「……そろそろ、危ないかもしれないんだってさ、私」

 休みの日ということもあり、病室で勉強をしていた僕と栃木は彼女の独白に顔を動かした。

 シャープペンの動きを止め、ベッドに横たわり本を読んでいる彼女に視線を向ける。

「……今、なんて言った……?」

 僕は、まるでなんでもないかのように言った福南に聞き返す。

「……私、もう近いうちに、死ぬかもしれないんだって」

「そ、そんなっ……」

「なんでもないように言うなよ」

 僕の呟きに呼応するように、栃木が叫ぶ。

「だって仕方ないよ。事実は事実なんだから……」

「そこまでっ、……そこまでしていつも通りでいたいのかよ……彩実は」

 彼は、悲しいような、無理に作った笑顔で続ける。

 ──彩実の前では笑顔でいる。その約束を守るために。

「私は、みんなより『いつも』が少なかったから。少しでも『いつも通り』の時間を過ごしていたいの」

「そんな、死ぬ死なないの話を『いつも』の話にしないでくれよっ」

 静かに、だけど確実に彼は叫んでいた。

「なあ、彩実。一個きいていいか?」

「……なに?」

「……ここ来てから、一度でもいいから泣いたか?」

 その問いに対する答えはなかなか出てこなかった。福南は開いていた本を閉じ、考える素振りをする。しかし、答えるより先に。

「泣いてないよな。……だって、そこのティッシュ全くって言っていいほど減ってない。交換されているわけでもない。……もう一個聞いていいか。……彩実は怖くないのか?」

 彼は問いを続けた。

「怖いよ。怖くないわけないよ」

「ならっ、どうして」

「だって……私が泣いたら……二人も泣いちゃうんでしょ……?」

 ようやく、常に下を向いていた彼女の視線が、上を向いた。その際。

 細くなった彼女の目尻から、一滴の光が落ちたのが見えた。

 その光は真っすぐ真っ白のシーツに吸い込まれ、わずかな滲みを浮かばせる。

「それは……」

 栃木は、彼女の答えを否定することができなかった。

 だって、図星だから。

「だから、私は泣かないように……しないと……駄目だって……決めていたのに……」

 わずかに浮かんでいたシーツの滲みは、どんどん大きくなり、そして。

「ぁぁぁぁ……もう、二人のせいで泣いちゃったよ……」

 ベッドの上に置かれていたティッシュを何枚かつかみ、鼻をかむ福南。

「俺等も、彩実の前では笑っていようって言ったのにな」

「……できっこないって。そんなの」

 だって、やっぱり悲しいものは悲しいんだから。

 それから、どれくらいの時間、僕達三人はそうやっていただろうか。気が付けば、もう陽がくれていた。

 結局、看護師さんに面会時間終わったからもう帰ってねと言われるまで、僕等はそんな感じにいたんだと思う。


 〇


「──で、それからの時間って言うのはさ。彩実と過ごす一分一秒がまるで宝石のように輝いて見えたんだよね」

 僕は新宿の大ガードの下、横断歩道の信号待ちをしていた。

 来ないかもしれない明日。

 その意識が、ひとつひとつの言葉を、丁寧に綴るんだ。

 ちょっと冷たい秋風が吹く、東京。

 僕は今日もこの雑踏のなか、描き出した君を想い続ける。

 数ある出会いのなかで、君に出会えたんだ。それだけで、もう充分奇跡なんだ。

 それに加えて、僕は、君に恋をすることができたんだ。幸せ、だったんだよ。

 僕の意識が、雲一つない青空に向いた瞬間。柔らかい風が凪いだ。

 ねえ。

「──僕は君との約束を、守ることができたのかな」

 そのひとりごとは、誰にも聞こえることなく、青空のなかに吸い込まれていく。不意に、腕時計を見た。「二度目」のそのときを、迎える。

「そろそろ……かな」

 夢の時間は、いつだって唐突に終わる。そうだよね? ……葉村洸君?


 〇


 その日は朝から気持ちの良い青空が広がっていた。うってつけの行楽日和の日曜日、そんな天気だ。朝ごはんも済ませ、僕はカバンに勉強道具を詰め込んで、病院に持っていく荷物を整理していた。しかし、そんなときに。

 スマホが着信を知らせた。名前を見て、僕はすぐに電話に出る。

「もしもし」

「っ……洸か?」

「ああ、僕だ」

「今すぐ病院に来てくれ……! 彩実の容態が……早朝から急変したみたいで」

「……わ、わかった!」

 なんとなく、察してしまったんだ。

 ああ、君はそうやって、すぐに人生を駆け抜けて行くんだねって。

 無邪気にはしゃいで図書室に向かう、あの元気な姿みたいに。

 僕は初めて病院に向かったときと同じくらいの勢いで、家を飛び出した。


 いつもの病室の前に着くと、壁にもたれかかって立ち尽くしている栃木の姿が見えた。

「……こ、洸……」

「彩実はっ……?」

 彼はくしゃくしゃになった顔をそれでもかと必死に笑みを作り、震える右手を握りしめつつ僕に言った。

「彩実の両親もいいって言ってくれた。……洸……彩実に顔を……見せてやって」

「っ──」

 僕はたまらずドアを開け、彼女の横たわっているベッドに近づいた。

「葉村君……彩実? 葉村君が来てくれたよ?」

 福南の母親がそう言いつつ、僕をベッドの側に通してくれる。

 ドラマとかでしか見たことのない医療器具が微かに音を鳴らしている。その音が鳴っている間は、まだ、まだきっと彼女は生きている。そう、信じることにした。

「……彩実……来たよ」

 仕方ないかもしれないけど、その声に反応はない。

「……彩実と出会えて、とても楽しかった。本当に、楽しかった。高校生活を、あの三人で過ごせたのは、本当に、幸せだった。……だからさ、彩実」

 ……どうして、そんなに君は命を駆けていくんだい? ゆっくり生きれば、まだまだ楽しいことを体験できたかもしれない。読んだことのない名作に出会えたかもしれない。それなのに。

「……っ、どうしてっ……もう、逝っちゃうんだよ……っ!」

 心からの叫びは、きっと、もう。

 彼女に届くことはない。

「……すみませんっ……取り乱して……ちょっと、外にいます……これ以上は、きっと迷惑になるだけなので……こんなときに、入らせてもらえてありがとうございます……」

 視界が歪むなか、病室を出る。そして。

「進。……側にいてやれ。……今までずっと、どんなときでも隣に居続けたんだろ? ……いてやれよ」

「……洸……っ」

 ありがとうと小さく残し、彼は再び病室に戻っていった。

 僕は、さっきの栃木と同じように、壁に背をつき、天井を見上げる。

 少しすると「彩実っ! 彩実っ!」っていう、必死な想いが僕の耳に聞こえてきた。

「……ぁぁ……」

 僕は、すぐ近くにあるベンチに座り込み、ひたすら手を合わせて祈り続けた。

 せめて、せめて明日さえ。明日の君さえ、いてくれたらそれでいい。

 そんな祈り、空しく。

 窓の外に映る、木々の葉が小さく揺らめいたときだった。

 病室から、白衣を着た一人の男性が出てきた。福南の主治医の先生だ。先生は僕の姿を見つけると、深々と頭を下げた。

 ……僕は。悟った。

「……ありがとう、ございました……」

 彼女は、福南彩実は。……旅立ってしまった、っていうことを。


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