第30話 過去形になれない想い
病室に戻り、無言で僕は椅子に座る。
「洸君……」
わずかに目もとが赤くなっているのは、僕の予想が当たっていた証左だろうか。
「……あ、あのさ……私っ……やっぱり洸君と進にはいつも通りにいて欲しいんだ。私がこんな状態だからって、二人が特別な感じになるのは嫌、なんだ。いつだって、二人にはニコニコ笑っていてもらいたい」
彼女の言葉を聞き、僕はぎこちない笑みを浮かべる。きっとひどいものだろう。
「ははは……ごめんね、無理に笑わせて」
「だいじょうぶ……」
今、僕の目の前で生きている彼女が死んでしまう。その事実が受け入れられず、実感できない。でも、近いうちに彼女は、このベッドの上で静かに眠ってしまう。そうなる未来を考えると、不意に目から温かい何かが零れてきた。
「……あれ……? 泣く、つもりなんて……」
「……ごめんね、私のせいで」
「別に……彩実のせいじゃ……」
想いは溢れ、目の前にあるベッドのシーツを濡らしてしまう。
「死なないで……死なないでよ……彩実……」
僕の嘆きは、面会時間が終わるときまで続いた。
帰り道、地下鉄に揺られながら家に向かう。目線の先には、大学生らしき男女が三人で集まっている。
「じゃあさ、次の休みにみんなで遊びに行こうぜ」
「おっ、いいねどこに行く?」
「私遊園地とか行きたいなー」
その姿は、一瞬「未来」の三人の姿に見えた。
もし、福南がまだ生きることができたならば、こんな未来があったのだろうか。
人の一生はしばしば、花火に例えられる。長さも大きさもまちまちのそれは、十人十色、百人百色の人の人生を例えるには充分だろうか。
だとするなら、福南の花火は。儚くも一瞬で、灯が終わってしまうもので。
まだ、まだ彼女の花火が輝くことはあるのだろうか。
……それとも、あるいは。
東中野駅で降り、陽が沈み街灯が辺りを照らす神田川沿いを歩いていく。
どことなく沈んだ気持ちを持ちつつ進んでいると、マンションの前に佇んでいる栃木の姿を見た。
「進……?」
「洸……」
「話、彩実から聞いたか?」
「うん、聞いた」
「……わかんなくて、彩実が……いなくなるってことが……わからなくて……」
今にも泣き出しそうな──いや、もう泣いているのかもしれない──顔をした彼は、川に向かって設置されているベンチに座り顔を両手で覆っている。
「僕だってさ、受け入れられるはずがないよ」
彼の目の前にしゃがみ込み、目線を合わせるようにする。
「……幸いにさ、僕はまだ誰の死も経験していない。親戚関係でね。葬式に出たこともないから、人が死ぬ、ってことはそれこそ創作のなかでしか知らないんだ」
「俺だって……」
「……彩実の存在って、僕や進には大きすぎでさ。彩実を中心に僕らの日々って回っていたところあっただろ?」
「ああ」
「……そんな彼女がさ、彩実が……もうすぐ逝ってしまう。他人の僕や、進でさえ、こんなに怖いんだ。……彩実本人が怖くないはずないだろ?」
「そんなのっ……普通だろ」
「でもさ、彩実はさ。僕や栃木にあくまでいつも通りでいることを求めたんだ。……だったらさ、だったら……。少しでも彩実がいつも通りでいられるように、さ。僕らも……普段通りでいる努力をしないと……」
「……なあ、洸、俺、彩実の前で普段通りにいられるのかな……」
「彩実がそれを望むのなら、僕らはそうしないと、いけないんだ」
「……そう、なんだよな」
「だからさ……彩実の前では、笑っていよう……?」
「……うん、そう、だね」
僕は、うなだれる彼に、「じゃあ、また明日な。さすがに夜は冷えるから、ちゃんと家帰るんだぞ?」とだけ言い、ベンチを後にした。秋風が冷たくなってきた夜の東京は、気を抜くとくしゃみをしてしまいそうになる、そんな気温にまで下がって来ていた。
そして、僕と栃木はひとつ決め事をした。
福南の病室に行くときはいつも通りでいること。ただ、それだけ。
福南が入院したと聞いて病院に駆けつけてくれた松浦さんにも、福南は事情を話したようだった。話を聞いた松浦さんは額を押さえ、「なんで、こんな……急に……」と悲しみを隠すことができていなかった。
「とりあえず、一旦外出ていい……? 栃木君と、葉村君もいい?」
「は、はい」
僕ら三人は福南の病室を後にして、病院の中庭に出た。
木々の葉の色も緑というよりかは黄色に近くなり、辺りにはチラホラとトンボの姿が視界に映るようになった。
「……ねえ、二人はさ……今のままでいいの?」
中庭をフラフラと歩きつつ、松浦さんはそう言う。
「今のままでって……」
「葉村君はともかくとして、栃木君はさ……好きなんじゃないの?」
なるほど、その話、か。
「……それはそうですけど……でも……」
栃木はどこか遠いところを見つめながら、続ける。
「今……というか、彩実がこうなった今……気持ちを伝えることって……彩実に迷惑なだけなんじゃないかな……って」
沈痛な面持ちを浮かべる、僕と松浦さん。
「……まあ、でも……言おうが言わまいが……自分のこの気持ちってのは変わらないと思うし……」
落ち着いた様子で、淡々と彼は自分の心中を語り続ける。
「……過去形になれない想いは、多分ずっと残ると思うんだ……長い間、片想い拗らせたのもあるし……」
過去形になれない、想い、ね。
「……まあ、一人くらいいいんじゃないですかねって、開き直ろうとしてます。ずっと同じ人を好きでいる奴がいても」
大人な考えだな……。別に否定する気はない。僕はそこまで熱い人間ではない。現実的な栃木の考えを尊重したい。
「……まあ、栃木君がそうしたいのなら……それでもいいと思うよ。それで後悔が、残らないのなら、いいと思う……」
「僕も、進がいいのなら。っていうか、僕がどうこう言える問題ではないし」
僕は、身を引いた立場だし。
「うん、そっか……栃木君の答え聞いて、なんか安心した」
「え? そうですか……?」
「栃木君らしいなあって。思ったよ」
いつの間にか、中庭を一周してしまったらしい。松浦さんは立ち止まって、こう言ったんだ。
「桜流しさ、やらないの?」
「……桜流しって、あの桜流しですか?」
さすが地元民栃木、単語を聞いただけで何のことかわかったようだ。
「うん」
「……どうですかね」
「やればさ……桜が咲くまでは……」
その言葉を聞いて、僕は松浦さんが何を言おうとしているかを察した。栃木も同じようで、しかし、彼はそれを制した。
「……それを期待するために、桜に願いをこめるのは違いますよ……きっと」
穏やかに、決して棘を含まないように、彼は言う。
「桜は、桜が咲きたいときに咲いて、散りたいときに散ればいいんです。それに、他人の命まで乗っけるのは……違います」
「……本当、眩しいくらい真っすぐだね、栃木君も、葉村君も、福南さんも」
小さく微笑みを浮かべた松浦さんは、一人先に病院の中に入ろうとする。
「私、そんなに頻繁に病院には来れないと思うから、思う存分福南さんと話してくるね」
「洸はどうする?」
「僕は……もう少し外にいるよ」
「じゃあ、俺も、外にいます」
「わかった。じゃあ、また後でね」
軽く手を振りつつ、松浦さんは病院の中へと戻っていった。僕と栃木は、中庭にあるベンチに並んで座り、取り留めのない話をして時間を過ごした。
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