第29話 僕だって本当は。


 それから毎日、僕と栃木は福南のもとを訪ねた。学校が終わると一緒に電車に乗り、彼女のいる病院に通い続けた。たまに用事が被って二人一緒に行けないこともあったけど、どちらかは必ず福南のところに行くようにした。

 病室に行けば、必ずと言っていいほど文庫本を開いている彼女の姿を見ることができ、僕が来たことに気づくと飼い主を見つけた子犬のように嬉しそうな表情を浮かべていた。

 そんななか、迎えたある秋の日。

 その日は、福南の検査の結果が出る日だった。僕と栃木にも福南から結果を伝えられる予定でいた。

 ただ、その日は僕に二者面談が入ったので、栃木に先に病院に行って貰い、僕は終わり次第向かうことにした。

「──で、葉村のこの間の模試の結果は。まあまあといったところだな。正直五分五分と言ったところだと思うが、変えるつもりはないよな?」

 夕陽が微かに差し込む教室で、担任と行う面談。原稿と並行して勉強を行ったので、成績はそれほど伸びてはいない。先生のからの評価値もゴーサインは出せるけど安全ではない、というような感じだろうか。

 まあ、今はまだこれでいい、はず。

「はい。変えるつもりはないです。このままでいきます」

「……なら、それはそれでいいんだ。……ところで、話は変わるけど。福南と栃木とはどうだ?」

「どう、と言うと?」

「福南の件は前もって福南の親御さんから話は聞いていたんだ。もしかしたら、っていうレベルの話だけど。だから、まあ、抱いた気持ちとしては、『来てしまった』か。だった。あまり教え子のそういう話を聞きたくはないが、もともと福南は体が弱い、という話だったから、覚悟はしていた。ただ……ずっと一緒にいた葉村と、……特に栃木はどう思っているか、それが気になってな。葉村はどこか大人びているし、あまり物事にも動じない印象だからな。栃木は……福南に若干依存している感が否めないと思っているから。葉村、実際はどうなんだ?」

 さすが、担任教師と言うべきか。大体の僕と栃木の感情を言い当てている。

 そして、心配の対象は僕でも、福南でもなく、栃木だと。

 けど、先生のその心配はきっと杞憂に終わる。

「栃木なら、大丈夫です。……春とは違って、もう落ち着いてますから」

 梅雨時に、一度進路に関して悩んでしまったことも先生は踏まえているのだろう。

 大丈夫。彼は、もう春とは別の彼になっている。

「……そうか、なら、いいんだ。葉村から、何か話しておきたいことはあるか?」

「いえ。ないです」

「……おし、じゃあとりあえず面談は終わりだ。もう帰っていいぞ」

「はい、わかりました。さよなら」

「ああ、さよなら」

 面談も終えて、僕はカバンを肩にかけて駅へと早足で向かった。普段は通学に使わない下落合駅も、もう見慣れてしまうほどには病院に通った。すぐに各駅停車の電車が滑り込んで来て、タイミング良く乗り込んだ。

 別に焦っているわけではないけど、気持ちはどこか急いている。やはり、結果が気になってしまう。はやる気持ちは足に現れ、西武新宿駅からの歩幅はかなり大きくなった。

 病院の入り口に着き、そのまま自動ドアを通ろうとする。

 と。

 僕と入れ違いに、同じ制服を着た男子が建物を早足で抜けて行った。

 その影に見覚えがあったので、僕は後ろを振り返り、彼の背中を視線で追う。

「進……?」

 先に病院に行っていたはずの栃木が、もう病院を後にした……? しかも、僕に気づくことなく、通り過ぎて行った。

 どことなく胸の中に嫌な予感を芽生えさせながらも、僕は福南の病室に向かった。

「……彩実……? 入るぞ……?」

 どこか震えてしまう声でそう言いつつ、僕は福南のベッドに近寄る。

「……あ、洸君……来たんだね」

 珍しく、本も何も読んでいない福南が僕の姿を認めると、小さな声で返してくれた。

「あのさっ、さっき……進とすれ違ったんだけど……」

「洸君。……結果、出たんだ」

 まるで僕に有無を言わせないタイミングで二の句を継ぐ。

「……彩実……?」

「……あのね、私……」

 さっきの先生との面談のときの、安心感とは違い。

 物凄く、嫌な予感がした。

 ついさっきすれ違った栃木の様子も考えて。

「ちょっ、待っ──」

「……もって、あと半年なんだって」

 止まることのない、彼女の独白は、最後まで紡がれた。

「……あ、彩実……? え……?」

 言われた言葉が、どうしても脳内で引っかかって理解が止まってしまう。

「……え?」

 隣で体を起こしている彼女の瞳は、こんなときでさえ真っすぐで。

 そのことが、嘘なんかではないことを僕に嫌というほど伝える。

「……進にも、さっき伝えたんだけどね。……進は、なかなか受け入れられなかったみたいで」

 そりゃあ、そうだよ、そんな……そんなこと。

「いやっ、だって……え? 嘘、だよね? 嘘、だよな?」

 嘘ではない、ってわかっている。彼女がこんな趣味の悪い嘘をつくような子でないことくらいわかっている。わかっているけど、嘘であって欲しいと願ってしまう。

「……嘘、じゃないよ? ……私、あと半年で、もう死ぬんだ」

 なんで……どうして。君はそんなふうに自分の命のことを受け入れているんだ。どうして君が一番落ち着いているんだ。

「……もう、ね。私の心臓、ダメみたいで……移植とかも、ドナーがなかなか見つからなくて。……だから、もってもあと半年」

「……このことは?」

「もう、両親は知っている。主治医の先生から話がいってるはずだから。……進と洸君には、私から直接言おうって、思って」

 ああ、もう、嘘だと思える材料がどこにもない。何一つない、ということは。

 僕は、福南がもうすぐ死んでしまうことを受け入れないといけないのに。

 今まで、何事にも適度な諦めをもって生きていた僕だけど。

 これだけは、これだけは。そんな簡単に受け入れられるわけがない。

「……ごめんね、洸君……」

「どうして、彩実が謝るんだよ」

「…………」

「別にっ、彩実は悪いことなんてひとつもやっていないし……それに」

「いいんだ。いいの、洸君」

「いいって……それどういう意味なの?」

「……私は、ずっと覚悟してたから」

 その言葉が、どれだけ鋭利な刃物となって僕の心を切り刻んだのだろうか。

 ──ずっと、覚悟してたから。

 ……教室で下らない話をして盛り上がっていたときも、司書室で部活をしていたときも、学祭の準備で色々なところへ行ったときも。

 君は、その覚悟を固めていたって言うのか。

 だめだ。今この場にいても、悪戯に福南に酷い言葉をかけることしかできない。

「……ごめん、ちょっと頭冷やしてくる……また戻るからさ」

 掠れそうな声で、福南にそう言う。すると、彼女はいつもの柔らかい笑みを、僕に浮かべた。

 その笑顔が、とても残酷だった。


 視界が灰色に映るなか、病院の入り口で僕はベンチに座り、ただただ移り行く景色を眺めていた。

 福南が、あと少しで死んでしまう。その事実を受け入れることができない。

「……こんなのって……」

 病院の入り口に往来する人々は、ベンチに座る僕に視線を一瞬よこしはするものの、すぐにどこかに行ってしまう。それはそうだ。見ず知らずの男がベンチでうなだれていても声なんかかけるわけがない。

 所詮、他人なのだから。

 ……なんで、こんな結末になるんだ。

 これは小説の世界。小説の通りに世界は進行する。つまり、舞台となった小説において福南は死んでしまう、そういうことだ。──何らかの奇跡が起きない限り。

 奇跡を希ってもいいのなら、僕が何かをすることで福南が助かるのであれば、何だってする。どんなことだって。

「……無理だよ。……彼女は、福南彩実は、もう助からない」

 心を読んだかのような応答。聞き覚えのある声。ゆっくりと顔を上げると、やはり僕の前には、白彩さんの姿があった。

「……だっ、……だからどうしてあなたはいつもこういうときに限って僕の前に出てくるんですか」

「こういうとき、だからだよ」

 彼は、そのまま僕の隣に座って、膝の上に肘をつき手を組んで考えるような素振りをする。

「彼女だって、怖くないわけないだろ? 死ぬのが怖くない人間なんているの? いるなら会ってみたいよ、僕は。……君は、彼女がどういう子かわかっているはず。半年にも満たない付き合いだけど、わかるはずだ」

 ……福南は、いつもニコニコと笑っていて、本の話になると子供みたいに無邪気になって。友達のことをよく考えてくれるし。

 ──よく、考えてくれる?

「……福南?」

 もしかして。

「……君の予想は、きっと当たってる。だからこそ、君は、彼女の運命を理解しないといけないんだ」

「…………」

「時間なんてものはさ……あるようでないんだよ」

 それだけ言い残し、白彩さんはベンチから立ち上がった。建物を寂しそうな目で見つめながら歩きだしていった。

「僕は……」

 僕は、何をしてあげられると言うんだろう。


 新宿の街並みを、彼は一人で歩いていた。新宿はいつでも人で賑わっていて、一人で歩いていると人混みに呑み込まれてしまうような、そんな錯覚にさえ陥ってしまう。

「……っ……」

 彼は外国人の観光客や、仕事帰りのサラリーマンでうごめいている通りを、唇を噛み締めつつ進んでいた。

「……僕だって……本当はっ……」

 ──彩実を助けたかったんだ。

 そんな彼の本音が、漏れ出ていた。


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