第21話 ルールを破っても、伝えたかったことがある。
少しすると、家のインターホンがもう一度鳴り響く。僕は、無言でドアを開けて、目の前に立っていた福南を迎え入れる。
「お、お邪魔します……」
彼女は靴を揃えて置いてから、僕の後をついて来る。生ぬるい空気が蔓延るリビングに案内し、ソファに座るよう促す。
「……ごめん、今お茶もなくて。何か飲みたいものあればそこのスーパーから買ってくるけど……」
「ううん。大丈夫だよ。それよりも大事なことあるから」
「……そっか」
そう言われ、僕も何か出すことは諦め、福南と斜めに向かい合う位置にソファに腰かけた。L字型だから、そうなるんだ。
「……ねえ、洸君」
「……何?」
「理由、聞かせてくれないかな……」
「…………」
「進を助けてくれた洸君とね、簡単に縁を切りたくないんだ。まだ、私は洸君に何も返してあげてないから」
「そんな……僕は別に」
「ううん。……例え、洸君が何もしてないって言っても、何もいらないって言っても。……私は、洸君のこと、尊敬してるから。だから、そんな洸君に何かあったら、私は助けたい」
そん、けい……?
僕が彼女の発した「尊敬」という単語に反応したのを見て、福南は少し空を見上げつつ続けた。
「私、ずっと入院を繰り返していてね。自然とやることは本を読むことしかなかった。だから私は本を読むのが好きになった。多分、これは洸君にも話していたと思うんだ」
「…………」
きっと、彼女がそう言うならそうなのだろう。僕は覚えていないけど。
「本ってさ、凄いよね。たった数百ページかそこらの文章で、私を色々な所に連れて行ってくれるから。行ったことある場所や、絶対に行けないような場所にまで。それって、凄いと思わない?」
……似たようなこと、考えているんだな……福南は。
「ずっと真っ白な箱に閉じ込められていた私が、唯一他の世界に旅立てる手段、それが本だったんだ。……私を外の世界に連れ出してくれる作家さんが、本当にすごいなあ、ってずっと思っていてね。……だから、私は洸君のことを尊敬しているんだ」
だから、尊敬、なんだね。
「何もない真っ白な空間から、一つの世界を創り出す。そんなことをしている洸君を、心の底から凄いって思った。……それにね、私も、洸君も心のどこかで一人ぼっちだった。だから、なんかシンパシーっていうか、そういうのを感じて。きっと似た者同士なんだよ私と洸君は。そんな、そんな洸君が困っているなら、力になりたい。……ねえ、洸君教えて。……どうして、私や進と距離を取り始めているの?」
そっか、なら。僕の心配事はきっと。
杞憂に終わる、のか?
「……わからなく、なったんだ……」
そうならば、そうであるならば。
──福南は、僕をただの憧れとしか見ていないのであるならば。
「……二人と、どういう距離感でいるのが正しいのか」
きっと、僕のこの想いは、ある意味、報われない。でも、それは僕が望む展開でもあるから。
「最初は、すごく心地よかった。僕と、彩実と、進の三人の関係が。僕も……僕もじゃないか、僕はずっと家のことやってたから、遊ぶこともできずに、友達ができなかった。……そもそも転校ばかりだった、っていうのもあるけど。……でも、僕は二人に出会うことができた」
──二人は出会った。世界は変わった。
……僕の場合、二人に出会った。世界は変わった。って言うのが適切なのだろうか。
「それからはさ、充実していたんだ。今までの生活が嘘みたいに思えたんだ。だけど……」
虹が架かったみたいに、色づいて見えたこの世界の景色。絵の具を落としたかのように淡く映った、この世界の日々。
けど、そんなふうに映ったがゆえに。
「彩実と進って、幼馴染で仲が良いだろ? 楽しそうに話す二人を見ると、僕、二人といていいのかなあって……、邪魔じゃないのかなあって。そう思ったら、どうすればいいかわからなくなってね……もしかして、邪魔なんじゃないかって……」
「邪魔なんかじゃないよ」
彼女は僕のほうを真っすぐ見つめ、そう答える。いつもの優しい笑みを浮かべつつ、さらに続ける。
「今の図書室には、進がいて、私がいて、そして、洸君がいないと駄目なんだよ。一人でもいないと、駄目なんだ。私は。この三人で……さいごまで過ごしていたい。最後まで一緒にいて、卒業式を迎えたい。……だって、私に友達という存在を教えてくれたのは進で、私に楽しい学校生活を送らせてくれたのは、洸君だから……」
「…………」
「だから、いなくなったりしないで。洸君」
どうやら、僕は最終手段を取ることはできないみたいで。
彼女は、僕のことを尊敬の対象、と言ってくれた。それが嬉しいか嬉しくないかはさておいて。
ならば、そうであるならば。福南がまかり間違って僕に矢印を向けることはない、はずだ。
絶対に振り向かれることがないって、わかっているとしたら。少しは今の感情もマシになるのだろうか。隠し通せるくらいには、落ち着けるのだろうか。
……だったら、また二人と仲良くなっても、いいのかな……。
「……もうすぐ、洸君の誕生日だよね?」
流れのなか、彼女はふとそんなことを言う。それを言われて、僕はようやく自分の十八歳の誕生日が明後日に控えていることを思いだした。
「その日、進と一緒に洸君の家に来てもいい? 一緒にご飯食べようよ」
「え……? あ、い、いいけど……」
「うん……そうしよう、そのほうが、いいよ」
三人でいることにこだわった彼女は、どこか切実そうな顔を浮かべる。
「よしっ、そうと決まったら。あまり長居してもあれだし、そろそろ私、帰るね。ごめんね押しかけちゃって」
「いや、全然っ」
そうして、福南がソファから立ち上がったときだった。彼女の身体はゆらゆらと左右に振れつつ、床に倒れ込もうとした。
「──彩実っ」
僕は慌てて彼女の身体を支えるように身を差し出す。結果として、それは間に合い、僕の胸元には華奢な彼女の身体が沈み込んで来た。
「大丈夫?」
「あはは……ごめんね、今日一日中外にいて、全然涼しいところいなかったから、バテちゃったかな……」
「な、なら今クーラー強くするよ、ごめん気づけなくて……」
電気代ケチるために空調を弱めていたけど、今のタイミングに関しては逆効果だった。
「ご、ごめんね……あと、ありがとう……支えてくれて」
不意に支えた福南の体は怖くなるほど細くて、軽かった。見た目もちっちゃいけど、そのちっちゃいと、彼女のそれとは、一線を画す気がする。少し爽やかな制汗剤の香りがする彼女から離れて、僕はエアコンのリモコンを操作し、クーラーを強くする。そして、食器棚からコップを掴みとり、氷を入れ、そこに水道水を注ぐ。
「ごめん、今何もなくて、水しか出せなくて」
「ううん、ありがとう、洸君」
ソファに座った福南に僕は今しがた準備したコップを渡す。
「もし、飲みたかったらそこのスーパーで買ってくるけど……」
「大丈夫、お水で」
「そ、そう……?」
「うん」
水でいいと固辞されては、それ以上何かができるわけではない。落ち着くと彼女はもう一度立ち上がり、「じゃあ、また明後日」とだけ言い残し僕の家を後にした。
建物から出てくる彩実の姿を見て、彼はホッと一息ついた。
彼女はしっかりとした足取りで神田川沿いを歩いていく。彼は、そんな彼女に声を掛けて、「身体、大事にしてね」と伝えたくなる衝動に駆られる。
……それはルール違反だ。運命を捻じ曲げることは、決してやってはいけないこと。葉村洸だってしっかり約束を守ってくれているのに、彼女との約束をなかったことにすることは、たとえ誰かに頼まれてもすることができない。しちゃいけない。
ぐっとその衝動をこらえて、彼は静かに遠ざかっていく彩実の背中を見送る。
「ねえ、僕は──」
瞬間、強い風が吹きつける。木々の葉を揺らし、葉と葉がこすれる音が辺りに響く。
オレンジに染まる空の下、彼は一人ずっと川の水面を眺め続けていた。
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