第18話 「約束」を守るために

 神社のなかもそれなりに回り、ちょうどお昼ご飯を食べたい時間になった。まあ、午前中早い時間に待ち合わせて今の状況、計算通りといえばそうなんだけど。

「お昼ご飯、どうしよっか?」

 最初のベンチに戻り、福南がそう聞き出した。

「そうだなー、彩実は何食べたい?」

 栃木が間をあけずに帰す。

「……やっぱり、しらす丼?」

「まあ、そうだよな」

「僕は……二人が食べたいものでいいよ。ちょっと、トイレに行ってくるね」

「あ、ああオッケー」

 僕はそう言い、再び栃木と福南と距離を取る。実際、本当にトイレには行きたかったからね……。

 近くのトイレを出て、僕は一瞬浮かぶ青空を見やった。すると、

「や、元気してた? 葉村洸君」

 いつかの男性が、人混みのなか僕に話しかけてきたんだ。

「あ……え、いや、なんでここに……?」

 まず出てきた感情は、それだ。どうしてあなたが江ノ島にいるんです……?

「いやー、なんか急に江ノ島行きたくなってね、しらす丼、食べたくなったんだよ、僕はね」

 取って付けたかのような理由を並べ、男性はそう答える。

「……ま、おふざけはこのくらいにしておいて」

 僕の目の前に現れたまま、話を続けていた男性はそう前置きし、スッと僕の隣に体を寄せて続けた。

「……そろそろ、君の気持ちがぐしゃぐしゃになる頃かなあって思って」

「っ……」

「板挟みになって、しんどくなって来たんじゃないかなあって」

「なっ、なんであなたは……」

「僕、最初に言ったよね。この物語は、ある小説を舞台にしているって。つまりはさ。……この世界は、その小説通りに進行するんだ。言いたいこと、わかる?」

 小説通りに、進行する……?

 男性の言葉を心のなかで反芻した途端、電流のようなものが突如体に走った。

「……ってことは、僕が、こういう気持ちになるのも、小説通りって、ことなんですか……?」

「うん。そうだよ。僕はその小説を読んだことがある。そういう展開だった」

「…………」

 この気持ち、描かれたもの、だったと言うのか……?

 僕が、福南を好きになったのも。

 僕が、栃木の背中を押したのも。

 僕が、二人の関係のために少しずつ距離を取ろうとしているのも。

 本心ではなく、描かれた……もの?

 そんな思いがよぎると、もう、止まらなかった。

「……じゃあ、この気持ちは……言ってみれば偽りのものって……こと……なんですか?」

 なんだよ……なんだよ、それ……。

「偽りなんかじゃないよ。それは曲解しすぎてると思う」

 窘めるように男性はそう言う。けど。

「……どうなるんですか? このあと」

 喉元からはっきりとした低い声が、漏れる。

「小説、読んだことあるんですよね。だったら、この後、栃木と福南はどうなるんですか」

「生憎、ネタバレはしたくない主義でね」

「はぐらかさないでください」

「……それはできない。言えないよ。……君のやろうとしていることは、間違っている」

 質問に答えてくれないだけでなく、突然僕自身を否定され、

「いっ、いきなり何を言うんですかっ」

 声をあげてしまう。周りを歩く人たちから何事かと視線を一瞬集めてしまう。

「……進と彩実が付き合わない。君の彼女への想いは募るばかり。このままだとそのうち気持ちが抑えられなくなる。……だって、ぽっと出の友人よりも、長年連れ添ってきた幼馴染のほうが相応しい、から。だよね」

「…………」

 もはや、否定する気にもなれない。そもそも小説を読んでいるなら、僕の感情なんてお見通しなんだろう。

「だから、三人から二人になれば、その問題は解決する。……自己満足もいいところにしたほうがいいよ。二人とも。進も彩実もそんなことは望んでいない」

「じゃあどうしろって言うんですか。僕に告白しろとでも言うんですか。そんなこと……できるわけがない。……そんなの、裏切りだ……」

 自分で発破をかけておいて、好きになっちゃいましたって……それこそ勝手だ。

「いいんです、僕の気持ちなんて、いつだって叶わないんですから。僕は、それでいいんです」

 そう返すと、男性は少し悲しそうな表情を浮かべる。

「……やっぱり、君は変わらないね」

「何が、ですか……」

「君の、その達観、かな」

 その言葉を聞いて、ああ、と僕は納得する。それくらいには、僕もわかっている。

 僕が、基本自分の願いが叶わない、実現しないって諦めていることを。

「……君は、小学生のころから今のような生活を始めていた。鍵っ子だったのがそのうち家事を覚えて、そして今は一人暮らし。……君は聞き分けのいい子だったから、ご両親を困らせるようなわがままは言ってこなかった。そういう生活をして築き上げられたのが、今の君のそれだ」

 ……母親は写真家。いつもどこかに飛んでいて、家にいる時間はほんのわずか。父親もまあそれなりに仕事が忙しいサラリーマン。そんな環境で僕が家の鍵を持って小学校に通うようになるのは時間の問題だった。

 もしかしたら、普通の家であるような家族の時間とか、旅行とか、遊んだりとか、そういった時間がうちは少なかったのかもしれない。

 実際、僕も親とどこか行きたいとか、そういった感情を持ち合わせる時期はあった。でも、それを口にすれば、親が困るのは目に見えていた。だから、僕がその願いを表に出すことはなかった。

 高学年にもなると、掃除・洗濯を皮切りに家事を覚えだした。誰に言われてとかでもない。自発的に、だ。家庭科の授業でやった、というのもあったかもしれないけど。そして中学生になる頃には料理もこなすようになっていた。そういった状況で、僕が同級生と放課後どこかで遊ぶ、ということは叶うはずもなかった。それを願うことはあれど、実現させることはなかった。

 そんな環境なら。

「……願いなんてもの、叶わないから願いって言うんですよ。僕が叶えたいことは、基本叶わない。……きっと、そう決まっているんです」

 僕がこういった考えを持つのもなんら不思議ではないと思う。

「だから、僕は二人と距離を取ろうって──」

「逃げるなよ。葉村洸」

「…………」

 今までで一番真剣な顔と声で、男性はそう刺した。

「……確かに、君は今まで自分の願いが叶ったことなんて見たことないかもしれない。でも、それは今の君の願いが叶わないと決めつける理由にはたりえない。……叶わないから諦めているんじゃない。君の場合、諦めているから叶わないんだ」

男性はさらに言葉を繋げる。

「……今、ここで君が二人から離れたら、君の思惑通りいくと思うかい? ……いかないよ。君が離れたら、きっと進と彩実は君のことで必死になる。それくらいの関係性なんだよ。三人は。……そんな単純じゃないんだ。君が痛い思いをすることで、二人も同じ痛みを感じるくらいの仲なんだ」

「…………」

 じゃあ、どうしろと。

「僕に、どうしろって言いたいんですか」

「……向き合って。君の、気持ちと。それだけでいい。でも、きっと君にとって、それが一番難しいことだから」

 そう言い切ると、男性はかばんから眼鏡ケースを取り出して、青縁の眼鏡をかけた。

「……さ、そろそろ行かないと、彩実と進、結構待っていると思うよ」

 男性は僕の隣から離れ、観光客ひしめく江ノ島の道に溶け込んでいった。一人取り残された僕は、今にも零れそうな本音を抑えるのに必死だった。


「……ま、そうは言っても気持ちを抑え込むんだろうけど、ね」

 ゆっくりと歩きつつ、彼は江島神社から駅のあるほうへと戻っていく。

「……時間なんて、あるようでないんだよ。葉村洸君」

 背中に残した彼に向けて、誰にも聞こえないくらいの大きさの声でそう呟いた。

 当たり前だけど、その呟きは、どこにも届くことはなかった。


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