第17話 沈みかけのイントロダクション

 一体どれくらいの時間、僕はその海を泳いでいただろうか。どれくらいの魚を、深海生物を眺めて来たのだろうか。

 本に魅せられた僕と、彼女が深くて広い海のなか、偶然出会ってしまうのは、それこそ時間の問題だったのかもしれない。

 とある本に気を取られ、僕はその背表紙に手を差し出した。すると、同じ本目掛けて伸びてきた腕がひとつ。

「あっ」

 僕は慌てて手を引っ込めて、その差し出し主を確認する。

「こ、洸君……」

 僕の隣には、白い肌を走らせ、書架に腕を伸ばす福南がいた。

 しばらく呆気に取られて目線を合わせたまま立ち尽くしていると、彼女は少しおかしそうに口元に手をあてて微かに笑みを零した。

「くふふっ……」

 図書館だからか、あまり音をあげて笑うことはなかったけど、確かに隣の彼女は目尻を下げて笑っていたんだ。

「いやっ、ね。私と洸君が初めて出会ったときも、こんな感じだったなーって、思い出してね……」

「そ、そうだった……ね」

 いや、僕は知らない。覚えていないけど、きっとそうなんだろう。

「あーあ……なんかおかしいなあ……大学の図書館でも、こうして洸君と同じ本に手を出しちゃうの」

 少し恥ずかしそうにしつつも、彼女はゆっくりと目的の本の背表紙を掴みだし、僕に表紙を見せてくれた。

「……いつか、さ。こうやって洸君の本を、眺めてみたい、かなあ、なんて……思っちゃったりしてね」

「っ……」

 その言葉に、一瞬僕は揺さぶられる。

 だって、彼女は信じているんだ。冷やかしでも、誇張でもなく。

 いつか、僕が本を出せるって。

 ああ、だめだなあ、僕。

 彼女が向けているそれは、「僕」に対するもののはずなのに、僕は勘違いをして僕に向けられたものだと思い込もうとしている。

 それが、どうしても嫌で。

「ど、どうだろうね……?」

 僕は、結局そんな中途半端なことしか返すことができなかった。

 一時間なんてあっという間に経ってしまい、集合場所に戻ると松浦さんに「どうだったかな」と迎えられた。

 ──その「どうだったかな」に、少なからず他意があったことくらいは、松浦さんの表情からも窺えた。

 どうもさせない、僕はそんな決意を抱いて、図書館訪問の日を終えた。


 二人と別れた後、僕は地下鉄に乗らず、歩いて家まで帰ることにした。

 少し、風に当たりたい気分だった。

 中井駅から隣の東中野駅は徒歩で二十分くらいだから、歩いていけない距離ではない。山手通りをただひたすら歩いていくだけの、簡単な道のり。

 青々しく生い茂った街路樹が並ぶ歩道をゆっくりと進みつつ、追い抜いていく車や自転車を眺める。

「……そろそろ、限界だよ」

 ひとりごとだった。誰にも聞こえない、ひとりごと。

 嫌だって、駄目だってわかっているんだ。

「なのに……」

 この気持ちは、どうやったって収まらない。

「……はぁ……」

 赤信号が切り替わり、青信号に。それに合わせて、横断歩道を渡っていく。

 東中野駅近くの交差点で山手通りを外れて、家のある神田川沿いの通りに折れる。

「……はやく、はやく」

 でも、そろそろ最悪の手段も、考えないといけないのかな……。

 車の走行音の代わりに聞こえだした川のせせらぎが、僕にとっては痛いくらいに優しい音すぎた。

 そろそろ、僕の気持ちも限界かもしれない。


 学祭の企画、聖地巡礼の一日目、鎌倉に行く日になった。清々しいほど気持ちの良い青空が広がっていて、まあ気温もそれに比例して上がっていた。待ち合わせの東中野駅西口改札前で、僕は本を読みつつ二人の到着を待つ。

 今回は江ノ島・鎌倉を回りたいということなので、まず新宿に出てそこから小田急で片瀬江ノ島まで向かう。そこで江ノ島観光を済ませたら、江ノ電でかの有名な鎌倉高校前の踏切を見に行って、その後鎌倉駅まで戻る。

 っていう予定。

 江ノ島や藤沢、鎌倉近辺は本当に舞台になった作品が多い。とてもじゃないけど全部は回ることができないから、そのなかでも特に見に行きたい場所だけを見る、そういう予定でいる。

 暇つぶしに読んでいた本のページを何枚かめくった頃、

「お待たせ―洸君」

 福南と栃木が待ち合わせ場所に現れた。白のトップスと、白のスカートと、白で揃えた福南の格好はそれこそ夏っぽい。

 合流した僕らはそのまま改札を抜けてホームに降りる。ちょうどタイミングよく新宿に向かう電車が滑り込んで来た。

「お、ラッキー、乗ろっ?」

「あ、ああ」

 平日お昼時ということもあり、車内は閑散としていた。新宿まで二駅なので、座ることもせず、そのまま立ったまま僕ら三人は駄弁っていた。

 あっという間に着いた新宿駅。ホームから改札に降り、小田急線に乗り換える。

 地上ホームに停車していた藤沢行の快速急行に乗り、空いている座席に並んで座る。隅から福南、栃木、僕となるように。

「江ノ島、初めてで楽しみだね、進」

「そうだな、洸は江ノ島に行ったことあるのか?」

「……うん、何回か、あるよ」

 僕、は何度か取材がてら江ノ島に行った。なんだかんだで舞台にしやすいんだ。「僕」は知らないけど。

「へぇー、いいなあ、私遠出とか小さい頃はできなかったから、羨ましいよ」

 ……病弱だから、なのかな。事情を知らない僕がずけずけと理由を尋ねるのも憚れるしきっと「僕」ならそんなことは聞かない。

「そっか」

 だから、僕は単純にそう相槌を返すに留めた。

 電車はしばらくして動き出し、目的地である神奈川県・藤沢へと向かいだした。隣の二人の会話は、基本止まることはなかった。けど、それに僕が絡むことは無理にはしなかった。


 特筆すべきようなことは車内では起きなかった。せいぜい、登戸駅に停車したときに目に入った某国民的漫画をイメージした駅名標や駅の内装に福南が「らしく」反応したことだろうか。いや、実際時間があれば降りてみたいとは思ったけどね。

 一時間もかからずに電車は藤沢駅に到着。ホームを変えて片瀬江ノ島に向かう各駅停車に乗り換える。平日とは言えど、やはり神奈川有数の観光地江ノ島に向かう人はそれなりにいるようで、片瀬江ノ島行の電車はまあまあの混雑だった。まあ、夏休みだしね。

 藤沢から片瀬江ノ島まではすぐだ。数分で電車は終点に到着した。

「着いたー」

 ホームに降り立ち、福南は一言目にそう言いだした。人の流れに乗り、そのまま改札を抜ける。

「最初はどこ行こうか、鎌倉提案者の洸君」

 駅舎の前、少し広い場所で立ち止まり、福南がそう尋ねる。

「……そうだね……まあ、とりあえず江島神社行く?」

 藤沢近辺を舞台にしたラブコメ作品が、つい最近アニメ化されて、この地域一帯にもそのアニメののぼりが出たりとかなりの密着をしている。作品自体も面白いし、個人的に神社のシーンはくるものがあったからいつかは行きたいと思っていた。

 福南と栃木も江島神社と言うと「あー」という顔をしてくれた。……こりゃアニメか原作、どっちか見てますね。

「うん、いいねっ」

「いいと思うよ」

「……別に、そこの水族館行きたいなら僕はそれでもいいけど」

 なんならその水族館も別作品の聖地だし。

「うーん……正直なところ、交通費で結構お財布寂しいからあまりお金使えないんだよね……ははは……」

 僕が別案も出すと、福南は困ったように笑みを浮かべた。栃木も同様。

「あと買いたい本とか買っていると自然とお小遣い減っていくしね……」

 どこか遠い目をしつつ、彼女は続ける。うん、わかるよ。僕もその感覚。新刊本を買いたいだけ買っていくと気づいたときにはもうお金がないってこと、あるよね……。

 別に何か悲しいことがあったわけでもないのに、どこかテンションが低めになる僕と福南。それを見て、

「な、ならほら、洸の言う通り江島神社行こう?」

 栃木が勝手に沈んだ僕ら二人を励ますようにそう言った。

「そ、そうだね、うん。行こっ? 洸君」

「お、オッケー……」


 僕を頂点とする三角形を描きつつ、僕ら三人は江島神社に向かった。人で賑わう仲見世通りから、階段の途中にある鳥居をくぐる。

 少し長いジグザグの階段を上りきると、拝殿が目に映る。

「……着いた、か」

 後ろを振り返ると。

「はぁ……はぁ……階段長かったね」

 息を切らして、膝に手をつけた福南がそう呟いていた。

「大丈夫か? 彩実」

「う、うん……」

 やばっ……確かに病弱の福南にこの階段は少しきつかったかもしれない。もうちょいペース考えたほうがよかったかな……。

「ご、ごめん、ちょっと休んでもいいかな……?」

 上目遣い、切れる息で彼女は言った。

「ああ、いいよ……ごめん、少し早かったね」

「全然、そんなことないよ……ごめんね」

 その提案を断ることなどできるはずもなく、僕と福南は近くのベンチに座った。栃木は近くの自販機で飲み物を買ってきて、福南に手渡す。

「ありがとう……進」

 ミスったな……何やってんだ僕は……。

 ……でも、さ。そこで飲み物買えるくらい、福南を見てるなら……。

 いや何考えてるんだ僕、それとこれは話が別だ。

 自分の責任を栃木に押し付けるなよ……。

 ……やっぱり、僕は、いないほうがいいのかな。

 一瞬。そんな考えが僕の頭のなかを駆ける。

 ベンチに座る彼女と、彼女の前にしゃがみこんで様子を見ている彼を見て、そんなことを思う。

 この場に僕って、果たして必要なのだろうか。って。

 何やら隣にいる二人は会話をしているみたいだけど、すぐ近くにいる僕にはどうしてか聞こえてこない。いや、聞こうとしていないのかもしれない。

 仲睦まじい二人を見ると、微笑ましい気持ちになると同時に、嫉妬してしまうんだ。

 ああ、やはり。

 こんな気持ち、知りたくなかった。単純な僕が、心の底から、本気で嫌いだ。

 僕はフラフラとベンチから立ち上がり、拝殿へ一人歩き出した。

「こ、洸……? どこか行くのか?」

「ごめん、ちょっと気分転換。すぐ戻るから、待ってて」

 嘘だ。

「え、え……?」

 こんな気持ち、嘘にしてしまいたい。可能ならば、偽りなく栃木の背中を押してやりたい。

 でも、それは無理だ。弱い僕が、それを許してはくれない。

 僕のこの想いに終止符を打つためだけに、僕は彼の背中を押している。それも、怪しいけど。

 参拝の列に無意識に並ぶ。列はスムーズに流れていき、すぐに僕の番になった。財布から、五円玉を取り出し、賽銭箱に入れようとしたけど、ふと思いとどまった。

「いや……違う、か……」

 僕は財布から十円玉をかわりに持ちだして、賽銭箱に入れた。

「……僕と、福南が、もう少しだけ、近づくことができますように」

 精一杯の嘘を、祈って。

 叶えて欲しくもない願いを並べ、僕は拝殿から遠ざかる。

 きっと、これで、もう……。

「ごめんごめん、彩実はもう大丈夫?」

 僕はベンチに戻るなり、座っている二人にそう声を掛けた。

「うん、もう平気だよっ」

「そっか、よし、じゃあお参りしてから、神社のなか回ろう?」

「そうだね、そうしよっ」

「…………」

 栃木は、何も無かったようにしている僕のことを見つめては、少し不安そうな表情をしている。

 ……僕の変化に気づくなら、どうせなら、もっと奥まで気づいてくれ。理由まで、気づいてくれ。

 中途半端な鋭さが、誰かを痛めつけることもあるんだよ、栃木。


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