第16話 これが最後だなんて、思うはずなくて。
終業式直前の放課後。夏休みが近くなり、本をまとめて借りて長期休暇に読もう、と考える人は一定数いるみたいで、いつもより図書室内は人気に溢れていた。
「はい、返却期限は夏休み明け九月三日です」
今日十五人目の貸出を捌いたところで、ひとまず図書室内はいつもの風景に戻った。そのタイミングを見計らって、
「福南さんって、司書志望でしたよね?」
都築先生がパソコンのデスクから後ろの福南にそう声を掛けた。
「は、はい。そうですけど……どうかしました?」
「この間教育実習で来た松浦先生から連絡が来て、司書志望の子がいたと思うから、もしよかったら大学の図書館案内しましょうか、ってお誘いが来たんです」
「え……それって……」
「目白情報大学の図書館に来ませんか、って案内ですね」
先生の柔らかい笑みとともに、その言葉は伝えられた。
「オープンキャンパスとは別の日程で案内してくださるみたいなんで、きっとゆっくりと回れますよ。どうですか?」
いや……こんな企画福南にぶら下げたら……。
「っ──いっ、行きます、行きますっ」
案の定だよ。別にそれがどうかするわけじゃないけど。
子供みたいにキラキラした表情をして、彼女は隣にいる僕、続いて前にいる栃木に向かって聞く。
「洸君と進は? 行くっ?」
「お、俺は……うーん……」
正直、僕はどっちでもいいっちゃいいんだけど……。
「行こうよ、ね? きっと楽しいよっ」
その瞬間、僕は、これまでの栃木の悩みの種を垣間見た気がした。
……ああ、きっとこんなふうに言われて、栃木は福南と一緒に居続けたんだろうか。って。
そりゃあ無理だよ。僕だって断れる自信がない。
あんな笑顔で、誘われたらさ。
「……わ、わかった、わかったよ俺も行く」
「やったっ。洸君は?」
「まあ、僕も行こうかな」
……栃木が行かないなら、少し考えたけど。
「よしっ、じゃあ決まりだねっ」
「まあ、福南さんたちなら全員そう言うと思いました。じゃあ、松浦先生にもそう伝えておきますね」
「は、はいっ」
「詳しい日取りは、終業式の日に伝えられるようにしますね」
「わかりましたっ」
「じゃあ、そろそろ、いい時間ですし、図書室閉めちゃいましょう」
「はーい」
そうして、僕たち三人は一斉に散らばり閉館の準備を始めた。終始軽い足取りで動いている福南を見て、少し微笑ましい気持ちになると同時に、心の中がざわめき始めていた。
終業式に先生から細かい日程を伝えられ、七月最後の土曜日の午前中に松浦さんが案内してくれることになった。都築先生は引率できないみたいなので、名目は大学見学ということでなんとかしてくださいと先生に頼まれた。まあ、別に何か問題を起こすようなことはないだろうから不安はないけど。それに、目白情報大学はこの目白情報高校のすぐ隣に立地しているわけだし、あまり気分は変わらない。
それよか、先生の引率がないすなわち。
「あ、洸君おはようー、早いねー」
私服参加になるのは……いや、まあ想像はついた。誰だってオープンキャンパス制服で行こうとか……。うん、思う人は少ないよね。
「おはよう、彩実、進」
当然かもしれないが、福南と栃木は一緒に待ち合わせの西武新宿線中井駅の南口にやって来た。
一瞬、初めて目の当たりにする福南の私服に目を奪われる。……いや、だって同い年の女の子とこうして会うことなんて今までなかったから。仕方ないよね。……そう、これは決して福南への気持ちからドキドキしているんじゃなくて……。
って、ごまかそうとするけど、無駄みたいだね。
淡い水色に少し柄の入ったワンピースを着た彼女は、右手にカバーのかかった文庫本を携えて僕のもとにぴょんとはねるように近づいた。
「暑いねー、今日も」
途端、彼女から柔らかいいい香りが僕の鼻腔をくすぐった。柑橘系のような、爽やかないい香りというよりは、甘く包み込むような、そんな。
「そ、そうだね」
なんてややしどろもどろになりつつも、そう返す。
「じゃ、行こっ? 二人ともっ」
既に僕らよりも数歩前に出た彼女を見て、僕と栃木はお互いの顔を見合わせ小さく笑みを零した。
「ほらっ、はやくはやくーっ」
そんなことをしているうちに、みるみる彼女の背中が小さくなってしまった。
いやっ、はやくね?
「ったく……」
僕は口元にそう残し、隣にいる白のワイシャツ君の背中をポンと叩いた。
「え……? 洸……?」
「ほら、早く追い付いてやりなよ、進」
……そのまま、いっそのこと、連れ去ってくれても、いいんだよ。
言外にそう伝えたかった。言わなきゃ伝わらないと、わかっていても。だとしても。
「あ、ああ……」
しかし、いや、当たり前だ。そんなに都合よく、人の思いは人に伝播なんてしない。
彼が彼女に追いついたときには、「洸っ、早く来いよっ」って、叫ばれた。
「……だから、そういうことじゃないんだよなぁ……」
僕にしか聞こえないくらいの大きさで、そう吐き出し、
「はいはいっ、ちょっと待ってて」
取り繕いの言葉を、先を行く二人に投げた。
そんなに長いこと歩く時間はかからず、すぐに目的の目白情報大学新宿キャンパスに到着した。夏休み期間の上に、土曜日ということもあり、キャンパスのなかは閑散としていた。
「えっと……、待ち合わせの場所は……」
「あっ、来た来たっ、福南さん、みんな」
キャンパスの正門をくぐり、待ち合わせの場所を確認しようとしていると、林立しているビルの一群から、つい最近まで見ていた松浦さんが手を振りながらやって来た。
「ようこそ、目白情報大学に。と言っても、すぐ隣だから、新鮮味もないですよね……」
「いっ、いえ、ありがとうございます。わざわざこういう機会を頂けて。滅多にできませんから、大学の図書館に入るなんて」
「まあ、そうだよね、高校生だと、なかなかね。うちの大学、図書館情報専攻があるだけに図書館の設備整っていて、司書志望の福南さんなら喜んでくれるかなって」
「は、はいっ」
「栃木君と、葉村君も、久しぶりです。外で立ち話もあれなんで、早速図書館に入りましょうか」
松浦さんに連れられ、ビル群の一角に入る。涼しげな室内は、外にいるだけでまとわりついて来る熱気を感じさせない。
「やっぱり外暑かったんだね……凄い涼しく感じる」
建物のなかを少し歩くと。
「わぁぁ……」
僕の前を歩く無邪気な局長がそんな歓声を上げるような、物凄く大きい図書館が広がっていた。視界360度に映る棚、棚、棚。圧巻だ。
「ここが、うちの大学自慢の図書館。蔵書数は新宿区にある大学のなかでは一番なんだ。普通なら、学生証ないと館内には入れないんだけど、今日は特別。さ、入ってください」
「は、はいっ」
半ば呆気に取られつつ僕らは改札のような図書館入り口を通過して、松浦さんの後を追う。
「今回三人を案内するのは、開架ではなくて、閉架書庫のところになります。まあ、開架は正直いつでも見られるし、高校のそれとあまり変わらないと思うんで」
通常、利用者の誰もが閲覧できるところを開架と呼ぶ。開架にある本は、自由に読むことができるし、借りることもできる。けど、図書館の蔵書の全てが開架にあるかと言われるとそうではなく、利用者が自由に閲覧できないところに保管している本も当然だけど存在する。開架に対して閉架と呼ばれるもので、場所によっては開架より閉架にある蔵書のほうが多い、という場合もある。
大学図書館くらいの規模になると、閉架のほうが多いのかなあ……とか、漠然と思ったりもする。
松浦さんはカウンターの人と何やら話をしてから、僕らをカウンターの奥にある階段の入り口に誘導した。
「で、まあ、この階段の下に、閉架書庫があります。通常は四年生と大学院生、教授しか入れないけど、今回は見学ということで。ただ、すごく広いから、迷子になると大変です。ちゃんとついてきて下さいね」
最後の部分を、やけに福南に強調して言った。……まあ、理由はわかる。福南のことだどこかで本を見るのに夢中になって置いていかれるとか普通にあり得そう。
「わかりました」
「よしっ。じゃあ、閉架に案内するね」
松浦さんはそう言うと階段を下り、少し天井が低くなっているフロアに僕ら三人を連れた。
「ここがうちの大学の閉架。広さも蔵書数も開架より大きいです」
規則的に並んだ棚には、ずらっと多種多様な蔵書が並んでいる。古ぼけた色の本もあれば、まだそれほど痛んでいない新しめの本まで。
「閉架に入る機会って、なかなかないと思うんで、私も四年生になってようやく初めて入った、って感じで。でも、本が好きな人なら、この閉塞感というか、本だけに囲まれている感覚って、共有してくれると思うんですよね」
「はいっ、すっごく今ワクワクしてますっ」
「お、俺も……はい」
「……僕も、ですね」
口々に驚嘆の感想を呟く僕ら。その反応を見て、ニヤリと笑みを漏らした松浦さん。
「そういう反応見せてくれると、こっちも案内しがいがあって楽しいよ。さ、じゃあ、どんどん行こうか」
松浦さんは歩みを進めていき、色々な棚を見せてくれた。貴重な古典作品の本や、昔の新聞の縮刷版など、ある種大学生の研究に使うようなものから、出版から日が経ち経年劣化でボロボロになってしまった有名な文豪の本まで、たくさん。そのたびに、僕らは──いや、特に福南は──瞳の奥に隠した好奇心を全面に押し出し、楽しくて仕方ない、といったように松浦さんの話を聞いて、蔵書を手にとって。
「さ、じゃあそろそろ棚ばっかり見て飽きてきただろうから、ちょこっと趣向を変えよっか。ついてきて下さい」
松浦さんはすたすたと歩いていき、とある扉を開けた。
「ここは……?」
おもむろに福南がそう尋ねる。
「ここは、フィルムで保存をしている資料を扱っている部屋。図書館の役割は、主に資料を保存すること。原本のままだと保存が難しくなるようなものとか、もう難しいものは、フィルムにその内容を写してそれを保管するの。この部屋では、そういった資料を見ることができるんだ」
例えば、と松浦さんは適当なフィルムを一つ選び、その部屋にいた図書館のスタッフの人にそれを手渡す。
「まだ私も、これを見る機械の操作はできなくてね……ははは」
そう苦笑いを浮かべ、箱型のようなスクリーンを指さし、
「これが、フィルムに残っている資料。こうやって保管するものもあるんだ」
「わぁ……」
どれだけ、昔に書かれたことだって、こうやって手段を尽くせば残る。
一度、誰かが書いてその紙のなかに伝えてしまえば、残るんだ。
もしかしたら、同じことを考えていたのかもしれない。福南も、僕と同じような目でそのスクリーンを見つめていた。
「…………」
その横顔を、僕はただただ見つめていたんだ。
「じゃあ、閉架の案内はこれくらいにして、あと一時間くらいで私、教授の研究室に行かないといけないんでそれまで開架を自由に見て回ってください。私はここの入り口のところにいるんで」
「わかりました」
そうして、閉架に入るカウンターのところで松浦さんは宣言通り入り口すぐにあるソファに座って何やら冊子を開き始めた。
まあ、四年生だから色々忙しいんだろうな……。
そう結論づけ、僕は辺り一面に広がる本の海に飛び込んでいった。
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