第12話 二十四分間の孤独

「……はぁ……」

 今日の部活で、何度目のため息になっただろう。

 司書室に漂う、少し重い空気。

 ……栃木は、きっと福南が原因で進路を悩み始めた。この間、福南と話したときからそう考えるようになった。

 きっと、この考えはあっているはず。

 ……だって、幼いときから、ずっと一緒にいたんだろ? 片時も離れることなく、栃木は福南の隣に居続けたんだろ?

 ……そんなこと、並大抵の気持ちじゃできないよ。

 特に、小学生のときなんて、外で遊びたい時期だ。普通は。そんな時期に病弱だったという福南に付き合い続けたならそれはそれで凄い継続だし、そもそもインドア派な男子だったとしても、それなら周りの目というのが気になったはず。「やーい、あいつ男のくせに女子と本読んでるー」的な何かが。

 それに小学生後半から中学生の頃は、異性と一緒にいるだけで何かと言われる時期だ。そんなときにも栃木は福南の隣にいたという。

 ……もはや尊敬するレベルだよ。栃木。

 まあ、そこまでするのには「それ相応の動機」があると思うけど、今は関係ないから割愛する。

 きっと、この目白情報高校に進学したのも、「福南が進学するから」だったんだろう。きっと、彼の行動原理の基軸は、福南なんだ。

 だから、今。

 その基軸を外して進路を考えているから、今。

 栃木はこんなにも、迷い続けている。

 どういう事情があって、基軸を抜いて進路を考え出したかは僕には想像するしかできない。まあ、多分事情を知っている担任とかが、福南と同じ進路先を書いたことを不安視して発破をかけた、とかだと思う。

「……でも」

 さすがに、そろそろタイムオーバーだよ、栃木。

 もう、福南がもたない。精神的支柱であった栃木がいないことは、かなり大きなダメージに繋がっている。それは栃木も同じだったようだけど。

 つまるところ、共依存な二人だったんだ。お互いがお互いに依存している。

 普通だった日々を、少ししか見ていないけど、いつもの福南の笑顔のきらめきはとてつもなかった。

 栃木がいるだけで、福南は笑っていられる。

 彼は、彼女の笑顔を作り続けてきたのだろうか、そうやって。だとしたら。

 本当に、尊敬を禁じ得ない努力だと思う。

「……そんな奴がさ」

 ……報われない世界なんて、空しすぎるよ。

 明日の金曜日。……もう、決着をつけよう。

 本の香り漂う司書室の隅で、僕はそんなことを決意した。


 その日の夜。夕飯も済ませ、僕はお風呂に入っていた。

 足を伸ばして湯船に浸かり、じっくりと考え事をする。

 今、「僕」が描いている小説の続きや……栃木のこと。

 四十二度に設定されたお湯は熱くもなくぬるくもなく、心地よい水温だ。まあ、三十分も浸かっていればしんどくなってくるけど。

 一人分余裕のある、湯船に体を伸ばす。

 いつだって、このお風呂場に複数人で入る、なんてことはありえなかった。入るのは、常に一人。

 親とお風呂に入った記憶が小学生のときからない、っていうのはなかなかだと思う。まあ、つまりは僕の家庭がそういう事情を持っていた、というわけなのだけれど。

 おもむろに両手でお湯をすくい上げ、またそれを戻す。音を立ててお湯は、再び表面から吸い込まれる。

 僕の家族全員が揃った瞬間なんて、今のすくい上げたお湯並みに僅かなものしかなかった。あったとしても、すぐに零れ落ちてしまう。

 母親は写真家で色々飛び回っているから、滅多に家にいないし、たまに帰ってきたと思うとその日は父親が仕事でいないこともざらだった。

 前にも言ったように、そんな状況だったから、必然的に家にいる時間は増えた。家事を手伝うことも増えたし、友達と遊ぶこともなかった。

 友達がいなかったわけではない。遊びに誘われることもあった。けど、その誘いに乗ることは、なかった。まあ、そもそも転勤で転校ばかりだったから、深い付き合いを作らなかったと言えばそれまでなんだけど。

 そして、いつからだろう。僕は、期待をしなくなった。

 どうせ、僕の願いなんてものは叶わない、そう考えるようになった。

 ──僕は孤独だったから。

「さて……そろそろあがろうかな……」

 少ししんどくなってきた。長風呂も良くないしね。

 僕は浴室を出て、脱衣所で体を拭く。パジャマを着てボーっとドライヤーを髪にかけつつ、僕はこんなことを考える。

 栃木……やっぱりすごいよ。

 ずっと、ずっと、一人の人に尽くし続けられるなんて。

 ……すごいよ。


 翌、金曜日。この日も、栃木と福南の関係はぎくしゃくしていた。そもそも会話が生まれない。

 二人が話すところを一度も見ないまま、迎えた放課後。

 金曜日なので、福南は部活には行かず、病院に向かった。また、栃木もそそくさと教室を出て行こうとする。

 その、遠ざかる背中に僕は一つ声を掛けた。

「進っ」

 昨日と同じように、彼は一瞬立ち止まった。

「……帰りに、話したいことがある。……時間、くれないか」

 ピクリと動いた肩は、やがてもとの位置に戻し、そして。

 彼は無言のままその場を立ち去り、背中を人混みのなかに溶かしていった。


「結局、葉村君一人になっちゃいましたね」

「……そうですね」

 カウンターに座る都築先生と、隅のテーブルで作業をする僕。さらに、パソコンのデスクに松浦さんもいる。

「今の三年生が引退したら、こんな雰囲気になるのかなあって、先生不安で仕方ないです」

 困ったように笑みを浮かべる都築先生。

 ……そうか、僕たちが引退したら──それがいつなのかはまだわからないけど──こんな風景が当たり前になるんだ。

 松浦さんも来週いっぱいで教育実習の期間が終わる。僕たちもいなくなれば、この広い広い本の海で、都築先生は一人になる。

 本の管理って、結構な重労働だ。ここ数週間、図書室で仕事をしたのもあるし、司の同人誌の売り子とかもしたから、なんとなくわかる。

 そんな大変な仕事を、引退後は一人でやらないといけない。

 それを思うと、少し胸がチクリと痛んだ。

 僕たちがどれだけの勧誘をしたのかは知らない。まあ、図書局も、僕が入っている文芸部みたいに「入る人は入るけど、入らない人は入らない」部活だと思うから。

 きっと、たまたま下の学年に図書局に興味がある人がいなかった。そう、開き直るしかない。

 だから、せめて。

 ……僕たちがいる今のうちに、できることを精一杯やっておきたい。

 栃木を……この空間に戻さないといけない。

「学校祭で、また勧誘かけるつもりではいるんです。さすがに、私一人だけで図書室回すのは不安しかないんで」

「あ……そうですよね、今、部員三年生しかいないですし……」

「福南さんたちも勧誘は頑張ってやってくれたんですけど……入部者、最後までゼロでね……」

 梅雨のひととき、利用者は今日もいない。降りしきる止むことのない雨が、しとしとと音を立てる。その音は、少しずつ、少しずつ、この場にいる三人の心を、蝕んでいるように思えてならなかった。

 梅雨は嫌いだ。ずっと雨に打たれていると、心が錆びついてしまいそうで。


 下校時間になり、僕は栃木にラインを送る。

【六時に、前に進が連れて行ってくれた喫茶店で待ってる】

 僕は傘を差し、水たまりが浮かぶ帰り道を一人で歩き始めた。

 喫茶店に着くまでに、返事は来なかったし、既読もつかなかった。


「いらっしゃいませー」

 傘に残った雨を払い、傘立てに置いてから、店内に入る。雨だからか、この間よりも空いていた。

「すみません、この後、連れが来る予定なんで」

「はい、ではお好きなテーブル席どうぞー」

 断りを入れてから、僕は前と同じテーブル席に腰かける。落ち着いた雰囲気の漂う店内は、内装やテーブル、椅子のアンティークさからも感じられるし、何より程よい静けさとBGMが心地よい。

「アイスコーヒー下さい」

 注文も済ませ、僕はスマホの画面とにらめっこを始める。

 未だ、画面に変化はない。

 一般生徒の完全下校時間は五時半だ。だから図書局も五時半に学校を出られるように活動しているし、進路相談でその時間を超過して学校に残るのは考えにくい。

 もう、学校は出ているはずなんだ。

 ……頼む、ラインに反応してくれ。

 ──帰りに、話したいことがある。……時間、くれないか

 ちゃんと伏線は張った。絶対に栃木のなかで「何かされるかも」っていう意識が生まれたはずなんだ。

 あとは……栃木が来てくれるかどうか……。

「お待たせしましたーアイスコーヒーです。ごゆっくりどうぞー」

 テーブルに置かれたコーヒーを一口含む。カランと氷とグラスがこすれる音が聞こえた。

 僕は、スマホの時計をチラリと確認する。

 ……六時三分。

 ……大丈夫、来る。来るはずだ。

 根拠のない希望を、ひたすらに唱えながら。僕は栃木を待った。全ては、はじまりに見たあの関係に戻すために。

 僕の頼んだコーヒーの半分が減ったころだった。

 店のドアが開く音がする。

「いらっしゃいませー」

 僕は、ドアのほうを振り向く。

「……先に知り合いが来ているんで」

 六時二十四分のことだった。

 僕の視線の先に、冴えない表情を浮かべた「友達」がやって来た。


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