第11話 開かずの踏切

 松浦さんと少し話をしたことで、福南にも落ち着きが取り戻された。かのように、思われた。

 しかし、その翌日、雨音響く教室で僕を待ち受けていたのは、涙目で自分の席に座る福南だった。

「えっ……あ、彩実……?」

 ただごとではないと感じた僕は机にかばんを放り投げ、彼女の机の前に膝を折りたたんで正対した。

「彩実、どうかした……? 進はどうした?」

 荷物はあるけど、誰も座っていない空席に目線をやりつつ、僕はそう続ける。

「……進と、喧嘩しちゃった」

「え?」

「……洸君は何もせずに待とうって言ってくれてたのに、私焦って……」

 彼女はうなだれるように、顔を下に向け、天板に雫をポタリ落としていく。

 ……もしかして、何か栃木に言っちゃったのか……? 福南。

「……進、少し悲しそうな表情で、『彩実にはわからないよ』って……」

 まあ、詳しいことはわからないけど、福南が栃木の導火線に火を点けてしまったのは確かだろう。

 でも、そんな軽々しく栃木の心の部屋に上がり込んだわけでもなさそうなのは、福南の様子を見てもわかる。

 彼女だって、なんとかしたかったんだ。

 迷って迷って迷い続けている幼馴染の姿を見て。

「……何があったの? 彩実」

 棘を抜いた柔らかい声になるように、僕は彼女に尋ねる。

「朝……、進がいつもより来るのが遅かったのが気になってね……」


 〇


 家が隣同士にある私と進は、小学生のときから毎日一緒に登校していた。その習慣は、待ち合わせ時間は年によって異なれど、変わることがなかった。いつも私が家を出ると、線路脇にある柵に体を預けて立って待ってくれている進がいるはずなのだけれど、今日に関しては違った。

「行ってきまーす」

 ここ最近止むことを知らない空からの落とし物を見上げつつ、私は傘をさして家を出た。視線の先にいるはずの進を探すけど、今日に関しては見つからなかった。

「あれ……?」

 私はキョロキョロと辺りを見回しながら、いつも進が待ってくれている場所に立ち、スマホを確認した。

 通知は何も来ていない。

 何かあったのかな……。

 雨の日も風の日も、宮沢賢治じゃないけど、進はいつだって私より先にいつもの場所に立って、私を見つけるなり「おはよう」と言ってくれた。そんな彼がいないことに、一抹の──いや、それ以上かもしれない──不安を感じた。

 五分から十分くらい雨の中、彼を待った。

 いつもより遅い時間に、隣の家のドアが開いた。

「あっ、進──」

 言葉の続きを紡ごうとしたけど、私はそれ以降、何も言えなかった。

 少し疲れた顔をした進の表情を見て。

 彼は傘をさして私のもとに向かって、小声で「ごめん」と呟いて学校のあるほうへと歩き始めた。


 出発して少し。線路脇の道路を折れて踏切を渡ろうとしたけど、タイミングが悪かったみたいで、警報とともに遮断機が下り始めた。

 並んで踏切を待つ間も、会話は生まれない。雨が傘を叩く音だけが、私と進の間に差しこむ。

 下りの電車が目の前を通過していく。無機質な警報音が、耳に響き続ける。

 朝の通勤ラッシュのためか、なかなか遮断機は上がらない。タイミングが悪いと開かずの踏切になるこの路線、それでも突っ切ることはせず、大人しく開くのを待つ。

 大混雑した上りの急行列車を見送り、ようやくゆっくりと遮断機が開いた。

 私は線路内に足を踏み出す。けど、隣から聞こえていた足音はついてきていない。

「進?」

 思わず、振り向いてそう声を掛ける。

 視線の先には、まだ踏切内に入っていない進の姿が映る。

 しかし、この時間の西武線は長い間踏切が開いているほど気長ではないみたいで、またあっという間に警報音が鳴り響く。

「えっ、わ、渡らないの! 進」

 私の呼び声空しく、進はその場から動くことはなく、再び遮断機が下り始めた。

「ちょっ、進……?」

 私は慌てて引き返し、遮断機の奥へと戻る。

「ど、どうかしたの?」

 俯いたまま、黒色のアスファルトを見つめる彼の顔を覗き込む。

「……置いてってくれて、よかったのに」

 小さく呟いた彼の台詞は、雨に叩かれる傘の音でかき消されそうな程、小さくて。

「……え?」

「……いいよ、先に行って」

 上りの、新宿方面に向かう各駅停車の電車が踏切を減速しつつ通過する。すぐ隣に伸びてきているホームにピッタリと停車したのを見て、遮断機が上がった。

「……行っていいよ、彩実」

 か細い、今にも折れてしまいそうな茎は、雨に勝つことはできなかった。

「行って」

「……ねえ、おかしいよ、最近の進」

「……大丈夫だよ、俺は」

「そ、そんなわけ、ないよっ、今日だっていつもは私より先に来ているのに、いなかったし、ここ最近ずっと部活来ないし……っ」

 再び、踏切が閉まる。

「そんなんで大丈夫って言われても、説得力ないよ!」

 すると、目の前に立つ彼は悲しそうに顔を歪めて、言ったんだ。

「……彩実には、わからないよ」

「っ」

「……彩実だけには、わかられたくないんだよ……」

 瞬間。私の背中から警笛が響いた。

 高速で通過していく電車は、降りしきる雨を切り裂いて、私の髪をなびかせた。

 また開いた遮断機を見上げ、彼は最後にこう言った。

「……濡れて風邪引いちゃうからさ、行こう」

 その後、学校までの通学路で、私と進は話すことは一秒たりともなかった。


 〇


 嚙みしめるように今日の朝の顛末を話した福南は、空いた幼馴染の机を最後に視線にやった。

「……教室着くなり、すぐに進はどこかに行っちゃって……何もしなくていいよって……洸君に言われたのに……」

 そうやって、自分を責め続ける福南。

 別に、誰が悪いわけでもない。この一連の流れに糾弾されるべき人はどこにもいない。だからこそ、沈痛な面持ちで朝の出来事を悔やむ彼女の姿がとても痛々しかった。

「……どうしよう……このまま進が……どこか行っちゃったら……そうなったら、私……私……」

 とことん、僕は無力だった。かけるべき言葉を見つけることができなかった。おかしいな、伊達に小説家志望をやっていないから、語彙に自信はあったはずなのだけど。

 語彙とかそんなものを抜きにして、僕にこんな萎れた彼女を励ます方法が見つからなかった。

 朝のホームルームが始まると同時に栃木は教室に入った。しかしながら、案の定彼の間に会話は生まれなかった。


 その日は、休み時間が来る度栃木は教室を後にした。僕と福南を避けるためにも。

 終業のチャイムが鳴り号令が終わると同時にどこかに歩いていく栃木。そしてそんな彼の姿を目線で追うだけの福南。

 ……こじれちゃった……。

 たった数十センチの距離感が、彼と彼女を隔てている距離感が、後ろの席から見る僕には、とてつもなく遠くて。

 昼過ぎの六時間目、日本史の時間。栃木は机の上から消しゴムを落としてしまった。歪な形のそれは、床を転々として、福南の椅子の下にまでいった。

「…………」

 普段なら、「ごめん、彩実取って」を彼は言えていたのかもしれない。

 しかし、そんな簡単な一言が言えないくらい、彼は追い詰められていたのだろう。

 伸ばしかけた左手は、彼女の肩口に届くことなく、消しゴムにも届くこともなく、失った行き先を求めてさまよっていた。

 結局、落ちた消しゴムは、六時間目の授業が終わるまで拾われることはなかった。

 僕が拾ってあげてもよかったのかもしれない。いや、そうするのが自然だったのかもしれない。

 でも、僕の右手は、石のように固まっていて、自分の意思で彼を助けにいくことが、できなかった。

 暗闇に転げ落ちた彼を、僕は助けることはできなかった。


 放課後。帰りの挨拶も終わりクラスメイト達は部活に行ったり帰宅したりとそれぞれの場所へ向かう。

 そんな最中、僕の斜め前の栃木はそそくさと荷物をまとめ、教室の外に出て行く。

 福南も、声を掛けることはなく、ただ背中を見送るだけ。

 バラバラになりつつある、図書局。

 このままじゃいけない。そう、わかっている。

「──進っ!」

 不意に、僕の口を突いたのは、彼を呼ぶ叫び声。何か策があるわけではない。

 ただ、このまま行かせてはいけない。そう、思ったから。

 廊下の人混みに、一瞬彼はその歩みを止める。

 ──ほんの、一瞬だけ。

 また彼はすぐに歩き始める。こちらを向くことなく、図書室とは逆方向にある、進路指導室に向かって。


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