第10話 慌てて決めた未来に
「じゃあ、ね。洸君」
栃木のいない帰り道、駅前通りの途中にある地下鉄の駅で僕と福南は別れる。
少し厚みのある黒い雲が広がる空を見つめつつ、彼女は家へと一人歩いていった。
梅雨が始まりつつある、東京。
中井駅の長い長い改札階からホームへと続くエスカレーターを下りていく。
僕は梅雨が嫌いだ。長いこと陽の光を浴びずに雨に打たれ続けていると、自分の心が錆びてしまいそうで。
この世界に飛んで、そろそろ二週間が過ぎる。ただなんとなく日々を過ごして、これまでのことをやり過ごしてはいる。
でも、これでいいのだろうか?
初日のあの男性の接触以来、何も変化はない。もう、僕は男性の言う通り小説の終わりを見届ければ現実に帰れるものだと信じている。
しかし、栃木の件に、何も効果的なことができていない。これでいいはずがないんだ。
エスカレーターを下りきって、最後の階段をゆっくりと歩く。ちょうどホームに着いたタイミングで都庁前方面の電車がやって来た。
比較的車幅が狭い大江戸線に乗り込み、ドアに背中を預けるように立つ。
──洸君が……そう言うなら……
僕の無責任な言葉は、福南に受け入れられた。
どうなるかは、わからない。
……栃木、悪いけど、早いところ、納得のいく未来を決めてくれ……でないと、福南がこのままだと潰れてしまう。
隣の東中野駅ですぐに下車した僕は、再び改札階へと長い長い道のりを上っていった。少し、雨の匂いがする。
すれ違う人が傘を持っているのを見て、外は雨が降っているんだろうなあ、と当たりをつけた。
案の定、外は雨が落ちていた。
梅雨の暴力、というものがあるとしたら、きっとそれは人の心を湿っぽくさせるものだと思う。余計な荷物を持たされて、しかも足元は少し濡れる。それで心が明るくなる人なんて実際にいるのだろうか。少なからず僕はそうはならない。
福南が僕に泣き顔を見せた次の日の水曜日。その日も栃木は図書室には来なかった。
図書室には、僕と福南と松浦さんの三人。
それぞれがそれぞれの仕事を無言でこなしていると、ふと、無音の空間を松浦さんが切り裂いた。
「……あの、福南さん、大丈夫ですか? 最近、元気がないように見えるけど……」
「あ……そ、そう見えます……? ははは……」
司書室のパソコンデスクに座って作業をしていた松浦さんのほうを振り返り、福南はそう苦笑いをする。乾いた笑い声と、作った表情は、隅に座っている僕にもよく見える。
「う、うん。栃木君が来なくなってから、特に……」
栃木の異変に気付いたときといい、松浦さん、人を観察する力高くないですか?
きっと福南も同じことを思ったのだろう。
「か、敵わないなあ……松浦先生には……何考えても見抜かれちゃいますよ……」
降参するかのように福南はスラスラと感服の言葉を繋ぐ。そして僕に目線をやっては同意を求めるような瞳をした。
「ま、まあそうですね」
事実、僕もそう思うのでゆっくりと頷いた。
「松浦先生、よく周りから観察力高いとか言われませんか?」
「あー、うん、友達からは結構言われるかな。空気読んで空気読んで、当たり障りない反応を選んで無難にことを済ませたりするとか」
松浦さんなら平然とやりかねない。まだ教育実習生としての松浦さんしか知らないからなんとも言えないけど、それでも想像がつくくらい、松浦さんは周りに気を遣える人だと感じていた。
「まあ、これが私の本性というか、周りの様子を見るのって、結構安心できるから」
「そ、そうなんですね……」
「だから、栃木君と福南さんのことは初日あたりから観察していましたよ」
「ど、どうしてですか?」
「……私の高校のときの関係性と似ていた、からかな」
どこか昔日の思い出話を語るかのように、松浦さんは窓の外から見える厚くて黒い雨雲を眺めつつ言葉を繋ぐ。
「私も、ここの図書局の出身って話はしましたよね?」
僕と福南は、そろって首を縦に動かす。
「私が現役のときも、部員数はこんな感じで、三年生のときは、全部で五人だった。一年生が一人、二年生が一人、三年生が三人」
「五年近く前は学年バラバラにいたんですね」
「うん。今の福南さんたちの部活も同学年だけのでそれはそれで楽しそうだけど、私のときも楽しかった。で、まあ、男女比も同じくらいでね。……高校生の男女が同じ部活に入っていたらさ、普通、色恋のひとつやふたつ生まれるもんでしょ?」
僕は素直に頷くことはできなかったけど、きっとそういうもんなんだろう。
「実際、そうだったんだ。局長の男の子と、三年の女子部員と、二年の女子部員の三角関係が始まって……」
苦笑いを浮かべつつ、そう続ける松浦さん。
「図書局に入るような人だからっていうのもあったから、そこまであからさまにバチバチすることはなくて、むしろなんかの小説に出て来そうなラブコメをしていたけどね。第三者の私からすれば面白いの一言が出てくる展開だった」
「それって、ライトノベルに出てくるような、そんな感じで、ですか?」
僕がワンクッション挟むようにそう相槌を打つ。
「うん、そうだね」
……それって、この世界がそもそも小説の中の世界だからじゃないですかね……とは口が裂けても言えないんだけど、そう思った僕だった。
「……なかなか決着つかなかったけど、ねえ、桜流しってあるよね?」
「はい」
……え? 桜流し? 何それ?
全く知らない単語が当たり前のように飛び出し、一瞬困惑する。
「妙正寺川沿いの桜並木に咲いている花弁を選んで、自分が側を歩いているときにその花弁が散ると、恋が叶うあれ」
……ああ、ご丁寧に説明ありがとうございます、松浦さん。
「……私、二人の花弁どっちも知っていてね。卒業式の日、図書局で追い出し会のようなことを図書室でやった帰り道、図書局全員で一緒に帰ったんだ。そのとき、一枚の花弁が散ってね」
松浦さんは、自分の手元に視線を移し、両手を握りしめた。
「……それは、同級生の三年生が選んだほうでね。そのときのあの子の表情は今でも忘れないし、逆に散らなかった後輩の子の悲壮感も凄かった。……その後の対応は苦労したなあ」
誰も図書室に入ることがないから、松浦さんの話は止まることがない。
「花弁散ったのを見た彼女は、その後局長に告白して、おまじない通り結ばれましたとさ。私は後輩の子のフォローに大学入ってからも奔走して、無事落着。今では普通に会って飲み会とかもするくらいにはなった」
……この三角関係の話聞いても、松浦さんが観察力に長けた人だという印象は変わらない。
と、一旦話を整理したときに気づいた。
ん? そういえば、さっき松浦さん、「私の高校のときの関係性と似ていた」から栃木と福南を観察していたって言っていたけど……。
もしかして、それに僕も含まれている……? いや、考えるのはよそう。
「とまあ、今の福南さんたちの関係が、私の昔話の状況にちょっぴり似たものを感じたから、少しお節介焼いちゃったってわけです」
そこまで話して、「大丈夫?」とでも言いたげな顔を福南に向けた松浦さん。
突然差し伸べられた優しい言葉に、何も言えない福南。
「あの。……どうして、松浦さんは先生になろうと思ったんですか?」
だから、僕はその質問を投げかけた。
それに対し、松浦さんは「うーん」と呟きつつ、口元に手を当てて答えを考える。少しして、
「……自分がなりたいものが、わからなかった、からかな」
自嘲するように、答えた。
「え……?」
予想とは違う方向性の答えを聞いて、思わずそんな反応を漏らしてしまう。
「おかしいよね? でも、そうなんだ」
今度は僕と向かい合い、話を続ける。
「小学生のときとかってさ、男の子はスポーツ選手、女の子はケーキ屋さんになりたい、みたいな風潮あるよね? 今はどんな感じなのかはわからないけど」
「はい」
「私、子供のときからそういう漠然とした夢すら持ったことなくてね」
「…………」
「将来に対するビジョンが、全然なかったんだ。だから、中高と何になりたいのかわからないまま時間が過ぎて、ただ本が好き、図書局だった、ってだけで今の文学部に入って。大学でもなんとなく過ごしていたら三年があっという間に過ぎちゃって。なんとなく取っていた教職の科目を活かして今こうして教育実習に来ているけど。……本当に私がなりたいもの、やりたいことが先生なのかはわからない」
松浦さんは迷うことなく、はっきりとした調子で言う。
「……だから、って言うのも変な話だけどね、今、慌てて決める必要はないんじゃないかなあって、思うよ」
その言葉は、まるで僕ではない誰かに向けて言っているように聞こえた。
……これ、僕が質問した意図まで、松浦さんは気づいているな……。
「慌てて決めた未来に、存在しない後悔なんて、ないと思うんだ」
駄目を押すように、そう続けた。僕は、小さく笑みを浮かべつつ、
「……ありがとうございます」
そう返した。
「じっくり未来を悩める人が、ちゃんと納得いく答えを出せたら、後悔は基本生まれないよ」
「……はい、そう、言っておきます」
「うん……栃木君も、誰かに話すことを覚えたら、少し景色が変わって見えるのかもしれないけどね……」
僕の意図を測ったのだろう、松浦さんは、今空いているもうひとつの空いた座席に視線を移し、目を細めた。
「きっと、大丈夫だよ……」
少しだけ、雨は弱くなっていた。
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