第9話 だからこそ、彼は悩みだした。

 松浦さんも段々図書局に馴染んできた二週目の月曜。あまりにもわかりやすい異変が、栃木に起きた。

 それに気づいたのは、一緒に本の棚戻し作業をしていた松浦さんだった。

「あれ……何冊か、配架の場所、違くないかな」

「え?」

 一緒に仕事をしていた僕はそんな呆けた声を漏らし、慌てて松浦さんの指さす本の請求番号を確認した。

 914.6

 この請求記号は規定の分類法では、明治以後の評論やエッセイを入れる番号だ。でも。

「この本、外国文学のところに混ざってるよね……?」

 松浦さんが気づいた本がある棚は、英米文学の棚──請求番号は930以降だ──だった。

「……これ、この間進が戻した本じゃ」

 僕は、該当の本に見覚えがあった。前の金曜日にカートに載っているのを見たし、それを進が戻しているのも見た。

「あと、パッと見た感じ五冊くらい違うところにある気がするんだ……」

 ……まじかよ、進。

「配架の場所を間違えちゃうと、図書の保管っていう図書館の役割を果たせなくなっちゃうから、気を付けないとダメだよ」

「……はい、今度、これを戻した栃木にも言っておくんで」

 栃木は今日、部活には来ていなかった。いや、きちんと先生に断りは入れている。きっと今頃、進路指導室にでもいるのだろう。

「あ……これ戻したの、栃木君なんだ」

「はい」

 すると、隣に立つ松浦さんは苦笑いを浮かべる。

「なんか、栃木君、私がここに来てから悩んでるような雰囲気あったからね。仕事に集中できてなかったのかもね」

 ……初対面の人に見抜かれるほど外に出てたのか、栃木の不安。僕は本人から話を聞いたからわかってるけど。

 いや、単に松浦さんが凄いだけか?

「何かあった? 洸君」

 時間がかかったからか、司書室から福南が様子を見に来た。

「あー、いや。進が配架場所間違えちゃって」

「えっ……」

 いや、まあそんな反応になるよね。

「ご、ごめんなさい、松浦先生。気づいてくれてありがとうございます」

「いいのいいの、たまにはそういうこともあるよね。気を付けてくれたら、それでいいから」

「……で、でも、進がこんな単純なミスするなんて……珍しいなあ……」

 少しずつ大きくなる一抹の不安は、次第に放課後の司書室を包み込むようになっていった。


 日をまたいで、次の日の放課後。やはり栃木の姿は司書室になかった。また、都築先生も松浦さんも用事があるらしく、図書室にはいなかった。

 カウンターに福南が座り、司書室の奥のテーブルに僕が座る。

 図書室特有の静けさが流れている。時折聞こえる紙と紙がこすれる音は、きっとカウンターに座っている文学少女が奏でているもの。それをBGMに、僕は図書だよりの原稿を打っていた。

 今日の昼に、栃木に図書だよりの原稿の締め切りと、昨日の一件のことを話した。

 ──マジで? ……ごめん。

 ──原稿のことはわかった、そこまでに仕上げるよ。

 そう言ってみせる栃木の表情はどこか憔悴していて、未だ答えが見つかっていないんだなと思わせた。

 そして、栃木の悩みが深まるにつれ、福南の元気も最近なくなっているように見える。

 僕がこっちの世界に来てから、栃木がおかしくなる前までの毎日の福南は、部活のときはとてもいきいきしていた。けど、今は。

 その明るさは鳴りを潜めている。

 おすすめの新刊本についての原稿を進めながら、画面越しに映る寂し気な後ろ髪をチラリと視界に入れる。

「……あのさ、洸君」

 僕の視線に気が付いたのかそれとも単に話がしたかっただけなのかはわからない。でも彼女は僕にそう声を掛けた。

「何?」

「……いや、なんと言うか……」

「進いなくて寂しい?」

 言葉を濁し始めた福南に、刺すようにその言葉を投げ入れた。

「いっ、いや、寂しいとかそんなんじゃなくて……」

 彼女は、僕の言葉に一旦否定の言葉を入れ、こちらを振り向いて身振り手振りで違うよと示してくれた。けど、それも次第に収まっていき、

「違う、ね。……寂しいのかな、私」

 結局、認める答えを漏らした。

「……ずっと、いつもそばにいたから、こんなふうになること、なかったんだ」

 またすぐに前を向いて、背中を僕に向けつつ彼女は語り始めた。

「幼稚園のときから、体弱くて外で遊べなかった私と一緒にいてくれたし……。ずっと、ね。外で遊びたいときだってあったと思うし、他の友達の誘いもあったと思うし、色々進には我慢させてきたって自覚はあるんだ」

「……幼稚園から、ずっと……?」

「うん。風邪とかなんかそういう事情がないとき以外は、私に付き合ってくれたよ。進は」

 だとしたら、すごい忍耐力じゃないか? 栃木って。

「……高校だって、本当は進、別のところに行くはずだったけど、家が近いからって私が選んだ情報高校を受けてくれたし……。大学も……同じところを受けるつもりでいるみたいだし……」

 ん? ……もしかして。

「最近、先生に呼び出されたときに何か言われてから、なんか様子がおかしいなあとは思ってて……力になってあげたいんだけど」

 ……栃木が悩んでる理由、もしかして。

 ──誰かのために生きるのって、アリだと思う?

 そしてこの間の喫茶店での栃木の言葉。

 進路先の変更。

「……進、私に何も言ってくれないから……」

 終始、彼女の音符が乗ったような明るい声色は聞こえなかった。

 そこまで言い、福南はもう一度僕のほうを振り向いた。

 その表情は、彼女に似合わない涙目で象られていたんだ。

「ねぇ、洸君。……私、どうしてあげたらいいのかなあ……?」

 栃木が悩み始めてからはや一週間。それだけの短期間で、福南が悲しみ溢れる涙顔を作ってしまった。

「っ、いや……」

 答えなんて、見つかるはずがない。「僕」なら答えられたかもしれない。栃木と福南と積み上げた時間があるから。でも。

 僕にはその時間がない。持っていないといけない思い出だってない。

 それに。

 僕だって自分のことで悩んでいるのに、他人の身の振りかたに口を出せるほど、余裕はない。

「……何もしない、っていうのも、優しさなんじゃないかな」

 絞り出した「逃げ」は、体の良い常套句だった。

 良く言うよ。それしか言えないくせに。

「そうかな……」

「大丈夫だよ。進なら。……待とう?」

「洸君が……そう言うなら……」

 彼女がそう頷いたときに、都築先生と松浦さんが図書室に戻ってきた。それを見て福南は慌てて涙を拭って僕のほうからカウンターの正面を向いた。

 やはり、その背中はどこか寂しげだった。


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