第7話 貼り付いた笑み
次の日、念のため朝起きたらまずクローゼットの制服を確認した。
やっぱり、昨日と同じ制服がかかっていた。一晩の奇妙な夢、っていうオチはないみたいだ。
朝の身支度を整え、僕は高校へと向かう。澄み渡る青空が広がるなか、朝の心地よい空気を吸いつつ、東中野駅を目指す。
駅前のロータリーで、演説をしている政治家を横目に、地下鉄の入り口に入った。大江戸線の線路は、かなり深いところにあるので、エスカレーターで下る時間がかなり長い。
ようやくホームにたどり着き、タイミング良くやって来た光が丘方面の電車に乗りこんだ。ラッシュの方向とは逆なので、比較的電車は空いていた。
すぐに隣の中井駅に着き、また、長い長いエスカレーターを上っていく。電車に乗っている時間より、エスカレーターに乗っている時間のほうが長いんじゃないか、そう思うくらい長い。
駅を出て、昨日と同じルートで学校へと歩いていく。今日は昨日より早めに出たので、時間に余裕がある。通学路の景色もゆっくり眺めつつ、僕は校舎に入っていった。
教室の席に座ると、すぐに前に座っている福南に話しかけられた。
「おはよー洸君」
「おはよう……」
そう言えば、「僕」は福南と栃木をどう呼んでいたんだろう。昨日はそういう場面がなかったから、考える必要がなかったけど、これからしばらくこの世界にいるのならば、把握しておくべきことだろう。
「今日はいつも通りの時間だね」
「うん、昨日の反省を活かして。……あれ? 進は?」
机の上に荷物は置かれているのに、栃木の姿は見えなかった。
「あー、進は今職員室に行ってる。何か用事があるんだと思うよ」
何気なく僕は彼を名前で呼んでみた。特に福南が驚くことはなかったから、きっと正解なのだろう。
「そっか」
あとは、福南をどう呼んでいるかだけど……。
正直、昨日の様子を見る限り、名前で呼んでいるんじゃないかなーと思う。けど。……僕、同年代の女子とほとんど会話した経験ないから……名前呼びなんて、したことないし……。
「そういえばさ、洸君。今の原稿の、調子どう?」
「あー、まあ、ぼちぼちかなあ……」
多分、今の原稿とは、昨日読んだ途中のものだろう。調子はどうかと聞かれれば、まあまあとかそういうふうにお茶を濁すしかできない。
「完成したら……また、読ませてくれる?」
「……彩実は読みたい? 僕の、小説」
「うん。もちろん」
屈託のない、純粋な笑みを、僕に差し出す。
「……そっか、わかったよ。完成したら、彩実に見せる」
その笑顔が眩しくて、つい視線を逸らしてしまう。彼女は「やったぁ」と声に羽根が生えたかのように軽い調子で返す。
き、緊張したぁ……名前呼びで合ってたよ……。なんだよ、「僕」。「僕」のくせにリア充な人間関係作ってたんだな。名前で呼び合う仲ってさ……。
色々と羨ましいよ。
昼休み。昨日とは違い、司書室に集まった僕ら三人は、そこでお昼を食べた。どうやら昼休みにも図書室の当番はあるらしい。壁にかかっているホワイトボードの隅に、当番表も書かれていた。火曜と木曜の昼休みは、僕らは非番のようで、月曜と水曜と金曜は当番が当たっている。で、放課後は基本毎日、だそうだ。今日は金曜だから、当番っていうわけなのね。
「はーい、返却ですね、ちょっと待ってくださーい……はい、ありがとうございます」
カウンターに座っている栃木が、貸出や返却にやって来る生徒の対応をさばき続けている。
今しがた返された本のページをパラパラとめくって中に何も挟まってないかを確認し、すぐそばに置いてあるカートに本を置く。このカートに置かれた本は、その日の放課後のうちに書架に戻すのが通常の業務の一環らしい。司書室の壁に貼られている紙を読む限りね。
栃木がカウンターで接客というか、対面の仕事をしている間、僕と福南は何もしていないわけではない。ちゃんと仕事はある、みたい。
その間、僕と福南は毎月発行している図書だよりの企画案を考えていた。ついこの間出したという五月号の反応を踏まえつつ、六月号にどんな記事を書くか、というのを話し合った。
昼休みも終わりに差し掛かった頃、都築先生が僕らのもとにやって来た。
「二人とも、図書だよりの企画立案お疲れ様です。先に言っておかないといけないことがあって、今、いいですか?」
僕らは一旦相談を止めて、先生の方を向く。
「来週から、教育実習生を受け入れることになりました。司書教諭の資格を取る学生の子だから、図書局にも顔を出すことが多くなると思います。だから、みんなよろしくお願いしますね。今日は福南さん、放課後はお休みの日なんで、あらかじめ言っておきますね」
「そうなんですね、楽しみだなー」
へえ……教育実習生ね……。
「いつまでいるんですか? その実習生さんは」
「えっと、三週間の予定ですから、六月の二十日くらいまで、ですね」
「三週間かあ」
とまあ、そんな会話をしていると、五時間目の予鈴が鳴った。それを聞いた都築先生は慌てた様子で、
「あ、もうこんな時間? もう教室戻っていいですよ、ごめんね、引き留めちゃって」
そう言い、カウンターに座っていた栃木にも声を掛けた。
先生に言われたように、僕らはすぐに司書室を後にして、教室に戻っていった。
放課後。帰りのホームルームが終わると、昨日はニコニコ笑いながら図書室に向かった福南が、今日は少し落ち着いた表情で教室を出て行った。
「じゃあ、今日は私病院があるからっ。また月曜ね」
通院しているんだ、福南は……。
また新たな情報を手に入れたものの、あまり喜ぶべきことでもないんだろうなと思いつつ、僕は残された栃木と一緒に部活へと向かった。
さっきの昼休みと同様、僕は司書室の奥のテーブルに座り図書だよりの企画を練り始め、栃木はカウンターに座りながらパソコンで何やら作業を開始した。
やっぱり放課後に図書室に来る人はあまりいないようだ。昨日はずっと誰も来なかったし、今日も数人が本を返しに来たのと、数人が勉強をしていったくらいだ。
まあ、それほど大きな図書室でもないし。
あと三十分で下校時間、というタイミングで、カウンターに都築先生が座って、僕と栃木は返却された本を書架に戻す仕事をやり始めた。
十進分類法に従って分けられた本を、二人で棚に戻していく。やはり、一番割合として高いのは文芸書で、大体八割くらいがそれだった。
黙々と分類番号を照らし合わせて、本をしまっていく僕と栃木。そこに会話は生まれない。まあ、図書室だから、っていうのもあるとは思うけど。
十五分くらいで全ての本を戻し終わり、司書室に帰ろうとすると、
「なあ、洸……ちょっと、後でいいかな」
首の後ろを右手で撫でつつ、栃木はそう声を掛けた。
「……? い、いいけど」
「ありがとう」
どことなく、冴えない目をしている彼の表情が、僕を不安にさせる。
「帰りにさ、駅前の喫茶店、寄ってこう? ……話したいことがあるんだ」
何かやらかしたのか? 僕は。知らない間に、何か気に障るようなことした?
そんな心配をよそに、都築先生からの連絡事項を聞き終わると僕と栃木は校舎を出て、中井駅のすぐそばにある喫茶店に入った。
駅からすぐということもあり、アンティーク調のかかった店内はそれなりに混雑していた。入り口すぐの窓際の席に向かい合わせに座り、僕も栃木もアイスコーヒーを注文した。
「……で、話って?」
少しクーラーの効いた店内は、最近蒸してきた暑さを快適にしてくれる。実際、夏の前の梅雨から、蒸し暑くはなるから。
「……洸はさ、誰かのために生きるのって、アリだと思う?」
重々しく発せられた問いは、少し消化するのに時間がかかった。だから、一瞬僕が呆けた顔をしたのだろう、栃木は言葉を続ける。
「……俺、今までずっと彩実と同じ学校に通い続けて、ずっとそばに居続けて、それが当たり前だったからさ。病弱な彩実を、隣で見なきゃって思ってたけど……」
また、一つ情報が零れた。
……体、弱いんだ。福南は。通院も、そのためなのか。
「お待たせしましたーアイスコーヒー二つです。ごゆっくりどうぞー」
届いたコーヒーをお互い口に含む。僕は、口元を紙ナプキンで拭った後、
「別に、ナシだとは思わないけど、それをこの時期に確定させていいのかって気はするけどね」
夢追ってる分際で何言ってるんだとも思うけど。
「進がそうしたいなら、そうすればいいと思うよ。まあ、リスクは僕と同じくらい、あると思うけど……」
「……洸も、そう言うと思ったよ。優しいからな、洸は」
少し切なそうに呟いた彼の声は、僕の耳に辛うじて届く、それくらいの大きさだった。それと同時に、栃木のアイスコーヒーの氷が少し溶けて、カランとガラスを叩く音がした。
「ごめんな、湿っぽい話して。なんか別な話しよう?」
その音をきっかけに、目の前に座る悩める少年は無理に作った笑顔で話題を切り替えようとした。
その、顔の表面に貼り付けた笑顔が、どうにも僕には引っかかって仕方なかった。
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