第5話 文字の海に溺れたい

 放課後、帰りのホームルームが終わると同時に、

「じゃあ、私先に図書館行ってるからー」

 と福南が教室をいの一番に出て行った。

「あんまり走るなよー」

 栃木はそう声を掛けてから、僕に苦笑いを浮かべてはこう続ける。

「ほんと、本が絡むと無邪気だよな、彩実は」

「……ああ、そうだな」

 授業中の、真面目な福南の姿を見た、というのもあり、素直にそこは同意できた。実際古典の授業とかで当てられてもスラスラと答えていたし。

 そんな授業中の姿と比べると、確かにギャップは強い。

「さ、そんな見た目も子供、中身も子供のお姫様を待たせてもあれだし、俺達も図書室行こうか」

「っ、そうだな」

 ……お姫様、ね。

 僕は放課後の喧騒の間を抜ける栃木の背中を追って、所属している図書局の活動場所、図書室へと向かった。

 教室近くの騒がしさとは対極に、図書室のある校舎四階隅は恐ろしいほど静かだった。リノリウムの床と自分の靴がこすれて音が鳴るだけで罪悪感を覚えるような、それくらい無音の空間だった。

 その静寂はガラス張りのドアを開けて図書室に入ると尚更強く感じられる。入ると同時に広がる本の海。

 ドアの目の前には新刊の本が表紙を表に面展されていたり、図書局員のおすすめ本として何冊かの文芸書が置かれていた。その奥には、開架の蔵書が所せましと並べられているけど、とりあえず栃木の後を追って、ドア横すぐにある司書室の入り口を通って中に入った。どうやらここが活動場所らしい。

「あっ、来た来た。遅いよー二人とも」

 僕たちの姿を認めると、木目を基調とした丸テーブルに色々資料を広げていた福南が立ち上がりそう声をあげる。

「こんにちは、栃木君、葉村君」

 その声に反応したのか、貸出カウンターに座っている一人の先生が僕らに挨拶してきた。

「こんにちは、都築つつき先生」

「こ、こんにちは」

「もう福南さんにカタログは渡しているので、新刊本の選定よろしくお願いしますね」

 司書の先生、なんだな。で、図書局の顧問、と。

 ……絵に描いたような文学少女を大人にした図、って印象を受けた。まあ、そもそもこの世界が彩られている感覚がしている僕が言うのもあれだけど。まっすぐ伸びた黒い長い髪がその印象を強くさせている。

「ほら、洸君も座って本決めよ?」

 いつの間にか栃木は福南の隣の席に座っていて準備が整っていた。

「あ、ああ悪い悪い」

 と言い僕も空いている席に座り、福南の言葉を待った。

「じゃあ、カタログ回すから、どんどん選んでこー」

 そんな彼女の上機嫌な言葉を皮切りに、僕たち三人は本を選び始めた。

 ……え? どんな本を選べばいいんだ? 文芸書ばっかでいいの? っていうか、部員この三人だけ?

 色々頭のなかでツッコミを入れつつ、しかしそれを聞くと怪しまれてしまうから黙々と本をリストアップしていく。

 えーっと夜井涼に西野圭吾に東加奈子……とりあえず高校生が読みそうな本をどんどん選んでいく。そこの新刊本コーナーの八割九割が小説なのを見ると、きっとほとんど小説しか選ばれていないんだろう。なら気にしなくてもいいかもしれない。

 十分十五分くらいすると、福南は「そろそろまとめよっか」と切り出し、三人で顔を突き合わせながら選んだ本を順に言っていった。

 さすがに三人が選んだ本全てを図書室に入れることは予算の都合上できないみたいなので、数を絞ることになった。その際も話し合いで、

「このシリーズは今まで入れ続けているから、新刊はすぐに入れたいよね」「こっちの人のはなあ、あまり貸し出されていないみたいから無理に入れることもないかな」

 などといったことを話していた。昔の「僕」ならそれにもきちんとついていったかもしれないけど残念今は昔の記憶がない僕。とりあえずうんうんと頷いているだけで精一杯だ。

 三十分くらいその内容を精査して、決まったリストを栃木が慣れた手つきでパソコンに打ち込んでいっていく。

 司書室の隅に置かれている小型のプリンターで印刷したのを、彼はカウンターに座っている都築先生に手渡した。

「先生、とりあえず終わりました」

「うん、ありがとうね、みんな。明日の職員会議に回しますね。とりあえず、今日やらないといけないことはそれで終わりだから、閉館時間までは好きにしていていいですよ」

「わかりました。だってさ、二人とも」

「三年生だから、受験勉強とかもしないといけない時期ですしね、先生もあまり気軽に仕事頼めなくなっちゃって」

 ははと小さく笑う先生は、どこか寂しいような目で壁にかけているホワイトボードの名簿を見ていた。

 遠目にも見えるくらいの程よい大きさの字で書かれたそれには、「図書局局長……福南彩実、副局長……栃木進、局員……葉村洸」とあった。

 三人しかいないことが、はっきりとわかった。

「俺は勉強してる。彩実と洸は?」

「私は少し本でも読んでようかなー」

「……余裕だな」

「ちっ、違うよ? 続きが気になってるだけだからっ」

「はいはい」

「……僕は、少し書架眺めてる」

「ん、そっか。じゃあ、こっからは閉館時間まで自由時間で」

 そう言うと、栃木は司書室のなかで勉強を始め、福南はカバンから文庫本を取り出してページに目を落とした。

 僕は、なんとなくここの図書室の棚を眺めたいと思い、司書室を出て室内をふらつき始めた。

 放課後にまで図書室に残って何かをするような殊勝な生徒はテスト前でもなければいないわけで、一人本の海に投げ出されたような、そんな感覚だった。実際、やけに輝いて映る閲覧の机や、少し年季の入った蔵書、棚に積まれてほこりをかぶった新聞紙でさえ、僕には色づいて見える。

 ぐるっと一回りして、文芸書の単行本が並んでいる棚に向かう。

 多種多様なカバーがかかった本が、そこには並んでいる。フィルムで保護された、手のひらに収まらないくらいの紙の間には、たったこれだけの間には。

 僕なんかには到底敵わないほど、美しい世界が広がっている。

 たった三百ページかそこらの文章の集合体は、一つの世界を作り出し、描き出し、僕らを連れ出して。その先で、僕らを魅了する。

 僕は、一冊の本に手を差し出した。心地よい負荷が、僕の両手にかかる。パラパラとページをめくり、そして、泳ぎ始める。

 文字の海を、泳ぎ始めた。そうなると、僕を止めるものは、何も無くなってしまう。

 たまに、思ってしまうことがある。本の海に溺れて死ねたら、どれだけ幸せだろうか。って。実際にはどうやって死ぬかなんて想像はつかないけど、でも、もし、もし叶うのであれば──

「──洸君。洸君ってば。洸君」

 すると、海に沈みかけていた僕の意識は、一人の呼びかけによって引き上げられた。

「もう、下校時間だよ?」

 声のほうを向くと、僕と同じように、書架に向かって立っている福南がいた。

「どうかした? すごい夢中になって本めくってたけど」

「あ、ああ……いや、ちょっと、ね」

 そう言うと、僕は持っていた本を棚に戻す。

「わかるよ、本読んでると、そうなっちゃうよね」

 屈託のない、何も混じっていない純粋な笑みを、彼女は浮かべた。さながら、道に花咲く、ヒナゲシのような。

「私もたまに図書館とか行って本読んでると、お昼に来たはずなのにいつの間にかもう夕方になっちゃった、ってことが多くてね。まあ、その度に進に帰りが遅いって怒られるんだけど」

 まるで、だだっ広い海の上に二人しかいない、そんな錯覚すら覚えた。置時計のカチカチという音も、遠くから聞こえる波の音に聞こえる。

「さ、帰ろう? 洸君。あんまり遅くなると、都築先生困っちゃうから」

 真っ白な笑みを崩すことなく、彼女は僕に手を差し出した。一瞬、僕はその手をつかむかどうか迷ってしまう。

 ……それほど僕と福南の関係って近いのか? と思ったから。

 しかし、彼女から手を差し出す以上、別に僕に対して悪い印象は持っていない、ということだろうから、ここは大人しく手を引かれていよう、そう決断した。

 伸ばされた手をつかみ、司書室に戻る。

 僕より断然小さい彼女の柔らかい手が、そっと僕を引いていく。柔らかくて、スベスベで、普段現実のほうで女の子に手を引かれるなんてことなかったから、そんな感覚がこそばゆく思えてしまう。

「おっ、戻ってきた。長かったな洸……」

 カバンを肩にかけた栃木は、僕の姿を見つけるなりそう言う。けど、すぐに言葉を澱ませてしまう。僕はその理由に気づき、慌てて彼女の手を離した。

「ごめんごめん、本読んでたら夢中になって」

「……そっかそっか、さ、帰ろう?」

 都築先生に声を掛けてから、僕ら三人は図書室を後にした。


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