第3話 守りたい約束、そのはじまり。

 *


 が、しかし。次に目を覚ましたとき。僕は一種の違和感を抱きつつ視界に広がる景色を眺めた。

 な、んか……景色が色づいている……?

 いや、普段がモノクロに見えているとかそういう話ではなく。今見えている景色が、やけにカラフルに映っているんだ。

 昨日まで無機質に見えていた部屋が、まるで水彩の絵の具で彩ったように鮮やかに広がっている。

「……何が、起きているんだ……?」

 探るようにベッドから降りて、部屋を出る僕。リビングや台所、家中を歩き回ったけどやはり少し色づいて見える。

 とうとう疲れておかしくなったのか……? 僕。

 ……とりあえず、朝ご飯を食べよう。話はそこからだ。そう思い、僕は冷蔵庫にしまっている食パンを取り出そうとした。けど。

 ……昨日と中身が違う……?

 さすがに笑うしかできない。だって、昨日、僕は牛乳を一本飲み切ったはず。だからあと一本しかないはずなのに、今ここには二本ある。他にも色々違うところはあるはずだけど、そんなことはどうでもいい。

 僕は無言で冷蔵庫の扉を閉め、再び部屋に戻る。

「落ち着け。……落ち着け」

 自分にそう言い聞かせるようにして、僕はスマホを開いて今日の日付を確認する。

 五月三十日。

「……昨日は、五月二十九日だったから、別にここはおかしくない……」

 じゃあ一体ここは何なんだ?

 手帳型のスマホのカバーに入っているICカードの定期をおもむろに取り出してみる。

「え……?」

 その定期の券面は、昨日まで乗っていた「落合→高田馬場」ではなく、「東中野→中井」になっていた。

 冷蔵庫と言い定期と言い、何もかもが違うな。

 ってことは……ビンゴ。

 クローゼットにかけているはずの制服も、デザインが違ったものになっていた。昨日までは白のワイシャツだったはずだけど、今は水色のワイシャツだし、冬服のブレザーも、ネクタイも違ったものになっている。

 ……オーケー理解した。これがよくある異世界転移って奴だな。僕はあまりその手のジャンルのライトノベルを読まないから知識は薄いけど。

 明らかにそうだろ。これで次に謎の美少女とか出てきたらもう確信だ。

 状況に一定の目処を立てたところで僕は改めて朝食を取ることにした。トースターに食パンを放り込み、待っている間に財布のなかにあるだろう学生手帳を探す。

 数秒で目当てのものを探し出し、カード型のそれを眺める。

 目白情報高校。普通科三年四組、葉村洸。

 なるほど、僕はこの世界では一つ隣の駅が最寄りの情報高校に通っているのか。

 もともとの高校とそれほど距離的な差はないはずだから、そんなに急ぐ必要はない。そう結論を出した頃に、トースターからチンと心地よい音が響いた。

「まあ、一番いけないのはお腹を空かせることって言ってたし……」

 そんな有名アニメ映画のセリフを反芻し僕は朝ご飯を食べ始めた。


 着なれない制服に袖を通し、少し余裕を持って僕は家を出た。外の景色も、若干鮮やかに映った。木漏れ日もやけに反射しているし、神田川の水面を照らす太陽の光も眩しいくらいに明るい。……そもそもこれは神田川なのか?

 左手で太陽を覆いながら僕は家の共同玄関を出た。すると、

「やぁ、おはよう」

 川沿いに立つ柵に寄りかかっていた一人の男性が、僕に声を掛けてくる。

「あっ、あなたは昨日の……」

 そこにいたのは、見知らぬ美少女とかではなく、見覚えのある顔だった。

「その様子だと、もう気づいているみたいだね。さすがは葉村洸君」

「ど、どうして僕の名前……」

「まあまあ。細かいことは置いておいて。この状況、説明して欲しいよね? 葉村君?」

 意味ありげに笑みを浮かべる彼は、そう言った。

 やっぱり、というべきか、この人は何か知っているんだ。

「……まあ、教えていただけるなら。ぜひ知りたいですけど……」

「……ふっ」

 僕の答えに対し、男性は少しおかしいというふうに笑ってみせる。

「何かありました?」

「ああ。ごめんね、別に他意はないんだ。やっぱり、変わらないなーって、思っただけ。で、だ。まあ単刀直入に言うと、今君は小説の世界に入り込んでいるんだ」

 なるほど、やはり異世界転移、という読みは当たっていたのか。けど、小説の世界ね……。

「よくある中世ヨーロッパとか、ゲームの世界とかではなく、変哲のない現代日本が舞台の作品だけどね。この世界で君にやってもらうことは一つだけだ。それは──」

 ふと、男性は川沿いの木々を眺める。風に揺れる枝葉をしばらく見つめた後、こう続けた。

「──その小説の終わりに立ち会うこと。それだけ」

「……それだけ、ですか?」

「うん。それだけ。別に倒す魔王なんていないし、起こす革命もない。君にお願いするのは、それだけだよ、葉村君」

 なんか、拍子抜け、というか。もっと無理難題を言いつけられるかと思ったけど。

 まあ、この男性の言うことを全面的に信じるなら、だけど。

「信じるも信じないも君次第だからさ、別に好きにしてくれていいんだけど、いくつかルールがあってね。それだけは守って欲しいんだ」

 ……なんか、心読んで先回りするような感じがするなあ。

「一つ。君が小説の世界に来ていることを僕以外の誰かに言わないこと。……というか、それさえ守ってくれたら、僕が言うことは何もない」

「……もし、それを破ったら?」

 男性は、その問いに対し、ゆっくりと間を取って答えようとする。今まで空を向いていたのに、今度は柵を背にきちんと僕に向かい合い、目線をきちんと合わせてくる。

「即刻、君は現実世界にひき戻される。……ここで過ごした時間だけ、経過した状態で。つまり、明日、君がルールを破ったら、現実世界の明日に無理やり戻される。無論、このことはきれいさっぱり忘れるし、何もわからないまま時間だけが過ぎていたって感覚になる。あと」

 そこまで言い、彼は呼吸を継いだ。さっきよりも真剣な目をして、こう続ける。

「……大事な約束を一つ、『僕』は破ることになる」

 一瞬、頭の上に疑問符が並ぶ。それを悟ったのか、

「ああ、ごめん。こっちの話。まあ、とにかく。ルールさえ守ってくれたら、ここの世界での記憶ももったまま、現実世界の五月三十日に戻れるわけだからさ。……頼んだよ、葉村君」

 まあ、そこまで聞けば、わざわざルールを破って無理に現実世界に戻るメリットはないように思えた。今のところ、頼れる人、というか何か知っている人はこの男性しかいないわけだし、とりあえずこの人の言うことを信じてもいいかもしれない。

「わかりました。とりあえず、あなたの言うことを信じて、終わりに立ち会います。それだけでいいんですよね?」

 彼は、それを聞くとパッと表情を明るくさせる。太陽の光と合わさって、少し眩しかった。

「うん。ありがとう。そうしてもらえると助かるよ。とりあえず、必要なことだけ君に教えちゃうね。君は一つ隣の中井駅の近くにある目白情報高校の三年生。クラスは四組で図書局に所属している。席は窓側の一番後ろ。仲の良い友達は二人いて、一人が栃木進とちぎすすむ。もう一人が福南彩実ふくなみあみ。どちらも同じクラスで、同じ図書局のメンバー。まあ、そんな感じかな。そうだ、葉村君から何か聞きたいことはある?」

 まくしたてるようにそう説明してくれた男性は、一旦僕に会話のパスを出した。

 折角パスを出してくれたなら、何点か聞きたいことはある。

「そう、ですね……二つ、あります。まずこの小説って、どういう小説なんですか? あと、これは個人的な興味ですけど、あなたは何者なんですか?」

 僕がそう尋ねると、男性は困ったように眉尻を落として、答える。

「うーん……ごめんね、どっちもちゃんとは答えられない、かな。一応、台詞を借りるなら、言えない事項なんで」

「そう、ですか……」

 まあ、別にわからなくても困ることでは、ないと思うから問い詰めることはしないけど。

「ところで」

 腕時計をチラリと見やった男性は、心配そうな顔をしつつ僕に言った。

「そろそろ学校に行ったほうが、いいと思うけど、大丈夫?」

「え? ……今何時……って」

 もう八時じゃねーかよ! これから知らない学校行くって言うのにこれはギリギリすぎるって。

「や、やばっ! 僕もう行きますね! ありがとうございました!」

 僕はそう言い残し、慌てて東中野駅に駆けだした。

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