第2話 聞こえるのは、ラジオの声だけ。

「じゃあ、僕は先帰るね。じゃあね、司」

 放課後。文芸部の部室でそれぞれパソコン、タブレットとにらめっこをしていた僕と司は、時折雑談も交えつつ、他愛無い話をしていた。朝の気まずい瞬間など、なかったかのように、いつも通りの仲を、僕と司は演じていた。

 しかし、僕が予備校に行く時間になってしまったので、僕はしぶしぶといった感じにそう言い、部室を出て行った。

「ああ。部誌の締め切り、そろそろだからな、洸。頼むぞ」

「オッケ―。わかっている」

 口ではそう言うものの、今日も部活の時間、部誌のために書いている原稿はそれほど進みがよくなかった。カバンにしまった私物のノートパソコンが、最近やけに重たく感じる。

 部室に残す司の目線が温かいのが、今の僕には辛かった。

 高田馬場の駅前にある予備校の校舎に入り、数時間自習室にこもる。多くの三年生が部活を引退して迎える夏休み手前のこの時期。文芸部は夏休み明けの学校祭まで引退はしないから、勉強時間が限られてしまっている。こういうところで詰めていかないと、他の受験生と差がついてしまう。

 予備校の講義がある日ではなかったので、八時くらいに校舎を出て、家へと向かう。

 地下鉄の窓に映る、少し疲れた僕の顔。ここ最近、同じ表情を帰りの電車で見ているような気がする。最寄りの駅で降りて、近所のスーパーで買い物を済ませる。

 レジ袋の中に夕飯の材料を揺らしながら、神田川沿いを歩いていく。人で賑わっている大通りとは対照的にほとんど人の姿は見えない。川のせせらぎが、僅かに耳に届いて、オレンジ色の街灯が道行く先を照らしている。

 スニーカーがアスファルトを叩く音が響き渡る中、川沿いのベンチに一人の男性が座っているのが目に入った。

 まあ、そこのベンチに誰かが座っている、ということはたまにあることだから、何も気に留めずに僕はその男性の横を通過した。

 すると。

「ねぇ!」

 突然、後ろからそんな声がかかった。近くには僕とさっきの男性しかいない。

 僕は足を止めて、声のした方を振り向いた。

「うん。君」

 スラリとした体つきの男性はゆっくりと僕のもとに近づいて来る。きれいにのりのかかった真っ白いワイシャツが清潔感を際立たせていて、青色の縁の眼鏡から優しそうな眼差しを送っている。

「あの……何か僕に……?」

「うん」

 僕と同じくらいの背格好の男性は、僕の肩に手を優しくポンと置いて、続けた。

「君の夢、叶えようか?」

 …………。え?

 秒針が四十五度動くくらいの間、沈黙が流れた。

 い、いや、夢を叶えるって……どういう。

「じゃ、頑張ってね」

 それだけ言い残すと、男性は僕の側を後にし、川沿いの闇へと溶け込んでいった。

「いっ、いやどういうことですか」

 僕の呟きに答えるのは、風にささやく木々の葉擦れの音だけだった。


「……何だったんだ? あの人……」

 喉元に何かが引っかかるように、さっきの出来事は僕の頭にこびりついていた。

「あっ、やべ醤油入れ過ぎた……!」

 台所で作っている肉じゃがにも影響を及ぼすくらいには。……まあ、味が濃くなるくらいだから、いっか。

 君の夢……。僕の夢ってわけだけど……。叶えるって、どういうふうに……。

 煮込んでいる肉じゃがをぼんやりと見つめながら、そんなことを考える。

 それに、頑張ってね……って。

「ああもう、わかんねーよっ」

 僕のその嘆きと同時に、炊飯器からお米が炊けましたというメロディが鳴り響いた。

「……とりあえず、ご飯にしよう」

 そうして、僕は一人静かに、テーブルに自分が作った夕飯を並べ、スマホでラジオを流しながら空腹を満たしていった。

 僕の家には、僕しか住んでいない。だから、こうして自分でご飯を作って、一人で食べているわけだけど。

 別に、そんなに悲劇的な要素が僕にあるわけじゃない。母親は写真家として全国各地、いや、たまに海外にも行っているから色んなところを飛び回っている。父親は普通のサラリーマンだけど、転勤が多く、今は仙台に単身赴任している。まあ、母親が家にいないのはいつものことだし、中学までは僕も父親の転勤に付き合ってはいたけど、高校入学を機に僕は東京に落ち着くことにした。

 小学校高学年の頃から、父親のやっていた家事を手伝うようになり、今では一通りのことはできるようになった。司とかにたまに、「お前、ほんとスペック高いよな」とかなんとか言われるけど、スペック高いとしても僕はそれほどモテる人種でもないからあまり関係はない。せいぜい健康的な一人暮らしを送れる、それくらいだ。

「では、ここで一つニュースを挟みます。国内の写真家として有名な、葉村灯さんの写真集が、本日発売になりましたね。私も早速買って読ませていただいたんですけども、やはり見ていて幻想的な世界が切り取られていて、心が奪われました。皆さんも、是非、いかがでしょうか。では、この辺で一曲行きましょう──」

 こうしてたまに届く近況報告は、メールでもラインでもなく、かといって直筆の手紙でもなく、いつも聞くラジオのパーソナリティーからのも、っていうのもいつものこと。だから、このラジオを聞くっていうのはある。

 ピアノを基調とする少し切ないバラードが流れ始めた。そのタイミングで僕は席を立って、後片付けを始める。

 十分も経たずに片づけは終わって、また勉強を始める。カリカリと机に向かいつつ、ラジオの声をBGMにする。このBGMがあるとないでは、それなりに集中力に差が出てしまう。

 やっぱり、誰かがそばで話してくれるだけで、なんか安心できるんだよね。

 一人の家は、恐ろしいほど音がしない。僕が何もしなければ、瞬間家に響く音は皆無なんだ。一人暮らしは三年目とはいえ、小学校の高学年からこういう一人が長い生活をしているとはいえ、やはり、一人って寂しい。

 日をまたいだ辺りで勉強は一段落つかせた。気分をリセットさせるためにも一旦お風呂に入り、部屋に戻りまた机に向かうと今度はノートパソコンと向き合った。

 部誌に載せる小説も、描かないといけない。去年とか一昨年とかは、締め切りは夏休み明けだったけど、今年は部員が三年なので、受験も考慮して夏休み前に締め切りを設定したらしい。司いわく。というか、投稿するのも僕と司だけなんだけど。

 パソコン画面とにらめっこしてはや数分。しかしワードのポインターは進まない。行っては戻り、行っては戻りを繰り返すだけだ。

「……違う、んだよな……」

 ここ最近、というか、三年生になってから極端に原稿が進まなくなった。受験に対するプレッシャーなのか、単なるスランプなのかは知らないけど、明らかにペースは落ちた。きっと司も薄々気づいている。

「うーん……どうしたもんかなあ……」

 ラジオの穏やかな音声とともに、唸る僕の悩ましい声が部屋に行き渡る。

 唸り声は増える一方、左下の文字数は一向に増えないまま、僕は結局諦めて電気を消してベッドに潜り込んだ。

 ……このままだと、司に迷惑をかけちゃうんだよな……。なんとか、なんとかしないと……。

 何か変わることを祈り、僕は意識を布団の中に落としていった。変わることは祈ったものの、また変わらないいつもの「明日」が来ると思って。


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