第2話


「ね。ギーナ……さん」


 ユウお兄ちゃん家の玄関が閉まると、あたしはギーナさんをじっと見上げた。

 つまようじが何本のるのかしら、と思うような長い長いまつげをふぁさっと一度またたかせ、ギーナさんがあたしを見下ろす。


「なんだい?」


 ギーナさんはかがまない。それで余計に、めちゃくちゃ出っ張ったおっぱいの向こうからあたしをのぞくような感じになる。

 なんだかむかつくけど、この人も男の人にもてそうだなあ。


 あたしはちょっともやっとして、つい自分の胸を見下ろした。まだなーんにもない、スカスカの胸。

 男の人って、おっぱいの大きな人が好きだもんね。パパだって、テレビでそういう女の人が水着なんか着て出てくると、「おっ」とかいってさ。必死でごまかしてるけど、目が完全に画面に釘づけになってるのはバレバレ。笑っちゃうほど、すっごく正直。

 ううん、ちょっと正直すぎるのよね。後ろでママが「ハンニャ」とかいう鬼のお面みたいな顔になってるって、気がついてないのかしら。

 あたしはルナを抱いたまま、ぺこりと頭を下げた。


「えっと……ルナのこと、ありがとう」

 ギーナさんはふわっと笑った。

「礼ならさっき聞いたからね。いいんだよ」

 まるでそこに、ぱっと大きな花でも咲いたみたい。それも、日本の小さな花じゃなくて、外国の大きくて派手な花のイメージ。

「ユウちゃんの大事な人の、大事なネコが見つかって、ほんとに良かった」

「えっ……?」


 大事な人?

 ユウお兄ちゃん、あたしのことを「大事な人」って言ってくれたの?

 声に出したわけじゃなかったのに、ギーナさんはあたしの顔色をあっというまに読んだみたいだった。


「今朝、『隣に住んでる可愛い女の子が、真っ暗な中びしょぬれになって、泣きながら子ネコを探してた』って、そりゃもう心配そうな顔で相談に来てさあ。そりゃ、大事じゃなかったらあんな顔はしないってもんでしょうよ。そうだろう?」

「う、……うん」


 ああ、どうしよう。

 なんだか、耳とか首とかがまた熱くなってきちゃった。


「たまたまそのあと仕事に出たとき、近くをウロウロしてたその子を見つけたもんだから。ほんと、運がよかったんだよ。ずいぶんお腹はすかせてたけどね」


 ああ、そういうことだったのね。

 いい人に見つけてもらって、本当によかったわね、ルナ。

 小さな体を抱きしめて、黒い頭にほおずりしてなでて上げると、ルナはのどをグルグルいわせて目をほそめた。


「それにしても。十二歳差か……。大変だよねえ──」

 それは多分、ひとりごとだった。

 ギーナさんがなんとなく、廊下の向こうの外の景色を見ながらつぶやいたのよね。聞かせるつもりはなかったのかもしれないけど、あたしはしっかり聞いちゃった。

「でも、希望はちゃんとあるからね? せめて、男女が逆じゃないだけマシってもんだろうし。ね? キリ……じゃなくって、キラちゃんか」

「え?」


 キボウ? 

 希望があるって、どういうこと?


「んね。聞いてもいいかい?」

「え?」

 見上げると、ギーナさんの桃色の瞳には不思議な光が浮かんでいた。

「キラちゃんはさあ。『運命』とか、『生まれ変わり』とかって、信じる方かい?」

「えっ? えーと……」


 あたしは首をかしげた。

 どうかしら。

 そんなの、ちゃんと考えたこともないわ。

 そりゃ、絵本とかマンガとか、アニメなんかではしょっちゅう出てくるやつだけど。あんまり、自分に関係があるとは思ったことないかも。

 あたしの顔色をさっと見て、ギーナさんは軽く苦笑し、息をついた。


「ま、信じる信じないはどっちでもいいけどさ。ちょっと困ったことがあっても、好きな人のことは諦めるんじゃないよ? ……とまあ、これは、年上のお姉さんからのちょっとしたおせっかいね」

「う、うん……」


 あたしがこくんとうなずくと、ギーナさんはこれまでで一番のいい笑顔を見せて、ふわっとしたスカートをゆらしながら、さっさとエレベーターの方に歩いて行った。

 ギーナさんが見えなくなると、あたしはくるっとふり向いて、うちの玄関に飛びこんだ。


「あらあら、まあまあ! ルナちゃん、見つかったの?」


 キッチンからこっちをのぞいたおばあちゃんが、目をまんまるくして大きな声を出す。「うん、そうなの!」とだけ言って、あたしはルナを床におろした。

 そのまま、だだっとリビングをかけぬけてベランダに出る。

 もちろん今度は、ちゃんとサッシは閉めたわよ?


 ここからだと、ちょうどマンションの外へ出ていく人の姿が見える。ギーナさんがどっちに向かって帰っていくのか、ちょっと興味があったのよね。

 あたしはそこでしばらく待った。

 でも。


(あれ……?)


 おかしいわ。

 ギーナさんが、何分たっても出てこない。

 このマンション、裏側にも小さな門はあるけど、そっちはここに住んでる人しか持ってないカギを使わないと出られないはず。だから、うちに来たお客さんはみんなこっちから出て行くはず。それなのに。

 エレベーターがなかなか来なくて、まだまってるのかしら。

 ううん、それにしたって時間がかかりすぎよ。


 それからしばらくそこにいたけど、結局その日、ギーナさんをもう一度見ることはできなかった。

 これでも、かなりねばってみたんだけど。風が出てきてだんだん寒くなって、あたしはとうとうあきらめて部屋に入るしかなかった。

 そろそろ宿題を始めなきゃ、晩ご飯に間に合わなくなっちゃうしね。


 実はその本当のわけを、あたしはずっとあとになってから知ることになる。

 それも、思っていたよりもずうっとあとに。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る