第3話


 それからしばらくは、何もなかった。

 パパとママは「ルナを見つけてくれた人にお礼が言いたい」って言ったけど、ユウお兄ちゃんは「あちらはそういうのはご遠慮したいとおっしゃってるので」と、困った顔をしただけだった。


 でも、あたしもあの不思議なお姉さんのことは気になっていた。

 なんだか知らないけど、なんとなく、あの人ってあたしとユウお兄ちゃんのことを「そういう風に」考えていたみたいだったから。

 あたしが自分で言うのもおかしいんだけど、ふつうの大人はあたしとユウお兄ちゃんが「そんな風に」なるなんて、想像すらしてくれない。年のはなれたお隣さんっていう以外のことなんて、まったく考えもしないのよね。

 まあ、あたしが心の中でどんなにそれを願っているかを知らないんだから、しょうがないんだけど。


 あ、そういえば。

 あたし、ときどき不思議な夢を見る。 

 夢の中のユウお兄ちゃんは、長くてきれいな髪をしていて、ちょっと耳がとがっている。ふつうの日本の人が着ないようなきらきらした飾りの色々ついた、ファンタジー映画の人みたいなかっこうをしてる。

 起きてからよく考えてみたら、その人はユウお兄ちゃんとは全然ちがう。顔だってそうだし、しゃべり方だってしぐさだって、かなーりちがう。

 ……でも、あたしにはわかるの。

 それが、ユウお兄ちゃんなんだって。


 夢の中のお兄ちゃんは、あたしをとっても優しい目で見る。

 あたしは今みたいなチビの子どもじゃなくって、ちゃんと大人の女の人で。ユウお兄ちゃんと同じ、違う世界の人が着る綺麗なドレスみたいなのを着て、お兄ちゃんに抱きよせてもらってるの。

 お兄ちゃんはあたしのことを、「キリ」とか「キラ」とか、なんだかそんな名前で呼ぶ。

 優しい優しい声で、大事な言葉をささやいて。あたしの頬を両手でつつみこんでくれる。


 すっごく、すっごく幸せで。

 いつまでもこのしあわせが続きますようにって、心の底から思ってるの。

 でも、なぜかわからないけど、そう考えたら胸の奥が急に、めちゃくちゃに痛くなる。叫びだしたくなる。


 ……夢の中のあたしは、それがどうしてだか知っている。

 でも、起きたらなんにも思い出せない。

 思い出せるのは、長い髪をしたお兄ちゃんが、ちゃんとした女の人にするみたいにあたしの手を取ったり、キスをしてくれるっていうことだけ。

 そんな夢を見た朝は、あたしは大体、泣いている。

 どうして悲しいのか覚えてないのに。

 でも、どんどんどんどん涙ばっかり出て、止まらなくなっちゃうの。

 ……どうしてかな。


 もしかしてギーナさんは、その答えを知ってるのかしら。

 ギーナさんの言っていたあの言葉。

 「運命」とか「生まれ変わり」なんていうのが本当にあるのなら。

 もしかして、もしかしたら。

 あたしとユウお兄ちゃんは、ずっと前に……?


(……ううん。そんなに都合よくいかないわよね)


 あたしは軽く、ふるふると首を横にふった。

 今はホームルーム中。

 先生が黒板の前で、「夏休みの生活」っていう日記みたいなノートの書き方を熱心に説明している。

 そう。もうすぐ夏休み。

 お隣さんだっていうのに、大学生のユウお兄ちゃんとあたしじゃ、ちっとも時間が合わない。だからふだんはほとんど会うことがない。ユウお兄ちゃんもハルお兄ちゃんもアルバイトが忙しいみたいで、帰ってくるのは夜のことが多いから。

 でも、夏休みになったら会える、っていうこともないのよね。

 夏休みは夏休みで、お兄ちゃんたちは別のアルバイトをいろいろ入れたり、友達と旅行に行ったりしちゃうから。


 あーあ。やっぱり、子どもなんてつまんない。

 あたしが今、せめて中学生ぐらいだったらいいのに。

 ユウお兄ちゃんのまわりにいる女の人たちが、えものを狙うハイエナみたいな目をしてお兄ちゃんをねらってるに決まってるし。

 いっしょに海なんか行っちゃって、布の少ない水着に包まれてムダにでっぱった胸を見せびらかして。ユウお兄ちゃんの気を引こうと、あれこれ作戦を立てては寄ってって。さりげなーく腕に手をからませて、胸もくっつけてみたりしてさ。

 ふん! ふんだ!


(ああ……やだ)


 心の中に、墨汁がわーっと広がってくるみたい。

 ほんと、想像するだけでぞっとしちゃう。髪の毛をかきむしりたくなる。そういう女の人たちのこと全部、虫よけスプレーかなんかをまきちらして、追い払って回りたくなる。


『ユウお兄ちゃんはあたしのだもん。あたしの、あたしの、あたしのだもん! だれもさわんないで、近よんないでっ! だれも、だれもよ……!』


 ああ。

 大声でそう言えたら、どんなにすーっとするかしら。

 まわりでは、「夏休み、何してあそぶ?」なんてのんきに言ってる子たちの声がする。

 海もプールも、キャンプも花火大会も。

 ユウお兄ちゃんがいないイベントなんてどれも、あたしにとってはつまんない授業と変わんない。まったく、なんの意味もない。味もしなければにおいもしない。もしも口に入れたなら、砂みたいな感じがするだろう。ちっとも胸がはずまない。

 あたし知ってる。こういうの、「ムミカンソウ」とか言うんでしょ? 前にパパがいってたのよね。どういう漢字を書くのかは知らないけど。


(あーあ。早く大人になりたい)


 あたしは夏休み用の宿題ワークやプリントなんかが積まれた机の上に、べたっとつっぷして窓の外を見やった。

 遠くで入道雲がもくもく育って、えらそうな顔でこっちを見下ろしている。

 あんな大きな雲から見たら、人間なんて虫か豆つぶみたいに見えるんだろうな。こんなあたし悩みなんて、どうでもよくってほんとにつまんないことにしか見えないんだろうなー。

 そんなことを考えてたら、となりの男子の声がした。


「あー。でもオレ、だめだわ。夏はカキコウシュウがあるんだもん」

「あ、ジュク?」

「うん」

「え~? おまえ、中学入試するんだっけ?」

「んー。うち、オカンがめっちゃ必死でさあ。前にアニキが落ちたからよけいなんだよ。『あんたは絶対受かりなさい』って、もう毎日めちゃくちゃうるさくってさー」


(……そうか!)


 あたしはがばっと起き上がった。

 隣の子たちが「ひえっ!?」って飛び上がったけど、そんなのもちろん、どうでもいい。


 そうよ。そうだわ。

 その手があった。

 そうすれば、あたし夏休みの間でも、ユウお兄ちゃんといっしょにいられるかも……!


 それからあたしは、相変わらず先生の話なんてそっちのけで、これからの計画を考えはじめた。


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