第2話


「えっ。猫がいなくなったの? それで、ひとりで探してたって?」

 ユウお兄ちゃんは、あたしの話を聞いてとてもびっくりしたようだった。

「でも、こんな時間に女の子が一人でなんて、危ないよ。そんなにびしょ濡れじゃ、風邪をひくし。いったん家に戻ろうよ、キラちゃん」


 あたしに傘をさしかけながら、ユウお兄ちゃんが何度もそう言うから、あたしはしかたなくマンションに戻ることにした。

 雨は降ってきたし、まわりはもっと暗くなっている。さっき探していた公園の茂みだって、もう真っ黒な影につつまれていて、今にもオバケが出てきそう。とても猫を探したりなんかできそうもない。

 足がすっかり痛くなってて、ママにふたつに結んでもらった髪も、スカートも靴下もびしょびしょだ。あたしはそれでもしぶしぶ、痛む足をひきずるようにして、ユウお兄ちゃんとエレベーターに乗った。


 お兄ちゃんの名前は「岡崎佑真ユウマ」。あたしの家のお隣に住んでいる大学生のお兄さんだ。

 「漢字は、にんべんに右って書くんだよ」って、前に優しく教えてくれた。本当は中学校でも習わないような難しい字みたいだけど、あたしはすぐにおぼえちゃった。わりと簡単な字だと思うんだけど、難しいって本当かしら。なんだかふしぎ。

 それにあたし、国語は得意なのよね。本を読むのも好きだから、三年生がまだ知らない漢字でもわりといっぱいおぼえてるし。


 「佑」は助ける、「真」は本当に、とか心から、とかいう意味なんだって。

 なんだかユウお兄ちゃんにぴったりの名前。

 うちは三人だけど、あっちは四人家族。ママ同士も仲がいい。

 ユウお兄ちゃんには双子の兄弟がいて、そっちのお兄ちゃんは「大翔ハルト」っていう。あたしは「ハルお兄ちゃん」って呼んでいる。

 ふたりがそっくりなのは、「イチランセイソウセイジ」だからなんだって。みんなは「全然見分けがつかないね」って言うけど、そうかしら? 

 あたしはずうっと前から知ってるから、ぱっと見ただけでどっちがどっちかはすぐに分かる。確かに顔は似てるけど、フンイキが全然ちがうもの。


 ふたりとも、少し茶色っぽくてさらさらの髪をしてて、すごく背が高い。ママなんて、二人に会うとちょっと赤くなって、声も高くなっちゃったりして。あとからあたしにこっそりと「ほんっとイケメンよね~」なんて言って、笑ってる。パパがいやな顔をするから、パパの前では言わないけど。

 でも本当は最初のうち、あたしは「イケメン」っていうのがどうもよくわからなかった。だってもうずうっと前に「これがお隣のお兄ちゃんよ」って教えられて、「ああそうなのね」って思っただけなんだもん。

 あのときは確か、ユウお兄ちゃんもハルお兄ちゃんも高校の制服を着ていた。


 女の子って、早い子は幼稚園の頃から、アイドルとか男の先生とかにきゃーきゃー言いだす。ママは「あの子、ほんとませてるわね」って変な笑顔になって言うけど、ふつうはそんなもんだと思う。子供だって、大人には本当の顔を見せてないもんなのよね。

 だけど、あたしもそういう男子たちを見て、べつに「わあイケメン」とか思ったことはない。まあ、「キレイな顔ね」とは思うけど、すぐに「ユウお兄ちゃんたちほどじゃないわよね」って思っちゃうから。

 ユウお兄ちゃんに比べたら、学校の男子なんてとてもきゃあきゃあ言う気になれない。だって、みんなてんで子供なんだもの。

 授業中に消しゴムのカスなんかぶつけあって喜んでるような男子の、どこがいいの? あたし、全然わかんない。

 先生だってそう。どんなハンサムな先生だって、あのユウお兄ちゃんにはかなわないに決まってる。


 ……と、いうことは、つまりユウお兄ちゃんとハルお兄ちゃんは、やっぱり「すごいイケメン」ってことなのかも。

 うーん、どうもよくわからないわ。


 でも、これだけは確か。

 あたし、ユウお兄ちゃんが大好き。

 だって、すっごくすっごく優しいんだもん。

 もしお兄ちゃんが「イケメン」でなくたって、あたしはきっとユウお兄ちゃんが大好きになってたと思う。


「キラちゃん、大丈夫? だいぶ濡れちゃったみたいだけど」


 ほらね?

 今だってこうやって、ほんとに心配そうにあたしを見てる。

 こんなに背が高いのに、地面にひざがつきそうなぐらいにすっとかがんで、自然に目の位置をあたしに合わせてくれてる。

 これ、意外とみんなやってくれない。

 背の高い男の人って、それだけでちょっと怖い。でも、こうしてくれたらだいぶ怖くなくなるから不思議。

 このマンションには、ほかにも中学生や高校生のお兄さんはいるけど、みんなあたしなんかには目もくれない。廊下なんかでたまに会っても、うさんくさそうな怖い目で上からじろっとにらんできて、「ふん」って感じでさっさと歩いていっちゃう。あたしが「こんにちは」って言っても、知らん顔。

 「同じマンションの人にはあいさつしなさい」ってママは言うけど、あの子たち、自分のママからそう言われてないのかしら。「シツケがなってない」ってやつかしらね。



「ちょっと待ってて。タオルか何か取ってくる」


 そう言って、ユウお兄ちゃんは自分の家に入っていき、すぐにタオルを持って出てきた。あたしはお礼を言ってそれを受け取り、ぐっしょり濡れてしぼんでしまったツインテールの先っちょをそうっと拭いた。

 ぬれた靴下が気持ち悪い。歩くたび、靴の中でぐちょぐちょいってる。

 そう思ったら、急に背中がぞくぞくしてきた。

 黙りこんだあたしを見て、お兄ちゃんはもっと困ったみたいな顔になった。


「えっと……キラちゃん、お母さんの携帯の番号わかる? 電話したほうがいいかもしれない」

「え、でも……」

 ルナがいなくなったなんてわかったら、ママ、きっと激怒しちゃう。それで、めちゃくちゃ怒られる。

 うつむいて自分の靴の先を見つめてしまったあたしを見て、ユウお兄ちゃんが困ったままの顔で少し笑った。

「一応、『僕が一緒にいます』って連絡しておきたいんだ。勝手にそうしないほうがいいと思って。『ダメ』って言われたらやめておくし。今はほら……色々と、うるさいから」

「あ、うん……」


 一度家に入って、あたしは自分の子供用ケータイを持ってきた。

 それからママに電話して、ユウお兄ちゃんにかわってもらった。お兄ちゃんはしばらく、まるで大人がしゃべるみたいにしてママと話していた。


「ええ……はい。あ、そうですか。それだったら……はい」


 ああ、そうか。ユウお兄ちゃんはもう大人だよね。

 だって、もうハタチなんだもの。

 あたしとは十二歳もちがうんだもんね。

 「干支えとが一巡して」とかなんとか、パパが言ってたのを思い出す。


「お母さん、あと二十分ぐらいで帰ってくるって。今はスーパーにいるみたい」


 電話を切ってにっこり笑うと、ユウお兄ちゃんは「うちに上がって待ってていいって」と言って、あたしをおうちに上げてくれた。


「体が冷えたでしょ。まだ夕方は少し寒いしね。なにか飲む? キラちゃんはココア、好きかな」

「あ、うん……」


 うちと同じ形のリビングで、椅子に座らせてもらって、牛乳とお砂糖たっぷりのココアを飲ませてもらう。形が同じでも、家具とかカーテンの色がちがうと、ぜんぜん別の部屋に見えるもんなのね。ふしぎ。

 甘くて温かいココアのおかげで、少しずつ体が温まってきた。トゲトゲになっていた心も、ちょっぴりまるくなってきたみたい。

 ユウお兄ちゃんは自分用にはインスタントコーヒーをいれて、あたしの前の椅子に座った。


「えっと……キラちゃん。ルナのことなんだけど」

「うん……」

「絶対見つかる、とは言えないんだけど。……実は僕、探してくれる人にちょっと心当たりがあって──」

「えっ……!?」


 あたしはびっくりして、思わず大きな声を出した。



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