ハルカ-3
後方を気にするようにして全力疾走する少年は、私の存在に気づきもせず、すぐ真横を風の如く通り過ぎていった。新幹線に横切られたような突風が長い赤毛をバサバサにかき回していくが、そのスピードに驚嘆している余裕はない。
本能的に、私は少年の後を追って地を蹴った。その直前、目の前の闇からヌッと巨大な影が姿を現す。
鼓膜が破れるような大音響の雄叫びを上げて迫り来るそいつは、何より規格外のサイズをしていた。
「有り得ない……!」
パラメータ補正全開でダッシュしながら、息を呑む。
獅子だ。ただのライオンではない。全長、実に八メートル級の怪物である。
この砂漠そのものを司る神であるかのように、きめ細かい黄金色の
頭部の周囲だけでなく、前脚から胴の半分あたりまでをタップリと覆うそれは、分厚い毛束が剣山のようにそそり立つほどのボリュームだ。反面、それに隠された皮膚は全て光を通さないかのように黒い。
前を走る少年は一体何をしでかしたのか、獅子はかなりご立腹で、口が裂けてしまいそうなほど大顎を開いて吼え猛る。
私は前を向き直し、パラメータ補正の限界を超えて全速力で走った。もちろんそんな気がしただけで、この世界のかけっこは、どう転んだってアジリティ設定値の高い方が勝つ。振り返らなくても、獅子の気配、息遣いがじりじりと背筋に迫ってくるのがわかる。
「くっそ!」
苦し紛れに背面投げしたフラッシュボムが、すぐ背後で炸裂して砂の洞窟全体を真っ白に塗り潰す。獅子の苦しげな悲鳴が轟き、足場の揺れが収まった隙に、全力疾走で引き離した。
あ、危なかった。心臓がバクバクいっている。だが安心するには早すぎる。フラッシュボムによる《幻惑》の効果時間は五秒。その間に、身を隠せる場所を探さなければ。
「おい、あんた、こっちだ!」
必死に走りながら身の隠し場所を探していると、不意に真横から鋭い声が飛んできた。突然知らない声に呼び止められて思考が一瞬止まったが、迷っている時間はない。靴底を削りながら減速して九十度ターンし、声のした方へ走る。
「早く!」
土気色の壁に一ヶ所、幅一メートルにも満たないような小さな横穴が開いている。そこに隠した体をめいっぱいこちらへ乗り出して、私に手を伸ばしているのは先ほどの少年ではないか。
私の走ってきた方向から、怒りで血走るような雄叫びが轟く。獅子が復活したのだ。無我夢中で少年に駆け寄り、その手をとると、少年はその細い手からは想像もできないほど強い力で私を引き寄せ、自分一人でさえ狭いその横穴に私の体をねじこんだ。
「うっ……!」
「静かに!」
横穴は
肩が壁にこすれて痛いほど狭い横穴のなかで、少年は乱暴に私の体を奥へ押し込むと、自分の体で私を隠すように覆い被さった。息を殺して獅子の気配をうかがう少年の顔が、すぐ近くにある。私も呼吸を止めて、じっとしていた。
ずしん、ずしんと足音が近づく。獅子の歩みがゆっくりなのは、私たちの姿をロストした証拠だ。獅子が少し鼻を鳴らすだけで、ふごぉ、ふごぉ、とおぞましい音が鳴る。アクティブ状態のモンスターは視覚だけでなく、匂いや音も頼りにしてプレイヤーを追跡する。
どうか、見つかりませんように――少年に隠されて外の様子が見えない私には、目を閉じて体を固くし、ただ祈ることしかできなかった。
いよいよ、近づいていた獅子の気配が、私たちの潜む穴の真横にきた。腹に穴が空きそうなほどの緊迫感を、ひたすら耐える。
やがて――獅子は再び歩きだした。少年と二人、ほっ、と音にならない程度の息を吐く。それで初めて目が合った。私が思わず笑うと、あんなに精悍に引き締まっていた少年の顔が、なぜだかみるみる赤くなった。
獅子の足音が完全に消えるまで私たちはそのままじっとしていた。ようやく気配が去ると、少年は決まり悪そうに後ずさりして、一足早く横穴から這い出した。
「ご、ごめんなさい、俺……」
同じく外に出た私が礼を言うより早く、そんなことを言い出した少年はまるで人が変わったみたいだった。おどおどしていて、なかなか目が合わない。
「なにがですか?」
「いや、俺、必死で君の顔ちゃんと見てなくて。まさか女の子だなんて思わなかったから。変なとこ触ってたら、マジ、ごめんなさい……」
なんだ、そんなことか。私は拍子抜けしてしまった。確かにこのご時世、フィールドをほっつき歩くような物好きは相当珍しい。女となると更に珍しいだろう。
「全然平気です、気にしないでください。むしろありがとうございました、助けていただいて」
微笑んで頭を下げると、少年の顔の緊張感も少し和らいだ。
と、その時である。――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ……、と、冗談みたいに大きな音が鳴った。少年が「えっ」という顔になる。出どころは、誤魔化しようもなく私のお腹だった。
私は今すぐ、さっきの横穴に再び入って、入り口を埋め立ててほしい気持ちになった。
「す………………すみません。現実世界なら気合いでなんとかなるんですが、この世界のコレは止めようがなくて……」
地面をじっと見つめながら、消え入るような声で言い訳する。顔全体を火で炙られているみたいだった。
「くっ」と、少年が吹き出した。ひとしきり笑ってから、「そりゃ……腹の音はなにも食ってない状態が続くと自動で鳴る
「そ、そうだったんだ……」
「まぁ、そこまでデカい音は聞いたことないけど」
「うっ……」
少年がまた笑う。うずくまりたい心境の私に、少年はやや気遣わしげな口調にもなって言った。
「よっぽど腹減ってるでしょ。飯ぐらい、ご馳走しますよ」
後にお互い自己紹介をすることになるのだが、彼の名はセツナと言って、私と同じ十六歳だった。
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