衝突-2

 濡れた瞳が矢の如く、俺を射貫いていた。その力強さに、喉が詰まる。


「バカなこと、考えないでね」


 母親とは不思議な生き物だ。俺の考えていることなど全て、この人には筒抜けなのだろうか。


「なにが?」


「とぼけても無駄。すごい顔してたよ、あんた」


「……そうかな」


 俺は観念して、居住まいを正し、母の目を、恐らく人生で初めて、こんなにも真っ直ぐ見返した。母は驚いたように目を見張り、そらした。


「母さん、俺」


「ダメよ」


 ピシャリと言葉をかぶせると、立ち上がり、逃げるように足早にキッチンへ向かう。母の全身が、めいっぱいの拒絶反応を示していた。


「おい、聞いてよ!」


 ここで負けてはいけない。どうにか母を追いかけて、俺は狭いキッチンまで乗り込んだ。怒鳴りたいのをこらえ、精いっぱい誠実に向き合おうとするが、母はこちらを見もせず、今全くする必要のない調味料の整理に、忙しなく取りかかる。


「そんなずぶ濡れで風邪引くわよ、お風呂入ってきたら?」


「この世界で風邪なんて引かねえよ!」


「――死ぬことはあっても!?」


 悲痛な叫び声に、俺はなす術なく押し黙った。


「……母さんね。あんたが教えてくれた、フレンド画面しか、開きかた分からなくて。あんたたちが、誰かと戦っている間…………バカみたいに電話かけることしかできなかった」


 母は小さな体を震わせ、罪人のような顔で泣いた。突然けたたましいサイレンが鳴って、夜空が真っ赤に明滅したあの時、家で一人俺たちの帰りを待っていた母の姿を、俺はありありと想像した。



『おかけになったプレイヤーは、現在戦闘中です。もう少し待ってからおかけ直しください――』



 戦闘中のプレイヤーに電話コールをかけると、そうアナウンスが流れて、電話は繋がらない。


 言われて初めて着信履歴を確認すると、三十を越える母からの不在着信が入っていた。きっとシュンにも、同じだけの数をかけたに違いない。


 死んだシュンに、通算何十回目の電話をかけた母は、その瞬間、どんなアナウンスを耳にしたのだろう。想像するだに、血が凍るようだ。


「助けにいけなくて、ごめんね……! 悪いのは全部母さんだから、だから、あんたがそんな顔しないでよ……生きて帰ってくれただけで、私は…………もう、これ以上のことは…………」


 くしゃりと顔を歪め、嗚咽を漏らす母に、俺はなにも言うことができなかった。言葉にできない違和感が、胸の底で結晶を作り、チクチク転がりながら大きくなっていく。


「毎日朝から晩まで、子ども外に出歩かせて平気だったなんて、私、どうかしてた……」


 悔やんでも悔やみきれないとばかりに、自分を猛烈に責め続ける母に、俺は違和感の正体を探りながら、ぽつりぽつりと疑問を口にした。


「……なんで、そうなる?」


 母が、泣き腫らした顔を上げる。


「じゃあ……俺たちは、ずっと家にいればよかったのか? レベル1のまま引きこもっていればよかった? せめて今日さえ、俺たちが外に出ていなければって、母さんは、そう思うのか?」


 母は呆然と、頷いた。違う。それは絶対に違う。燃えるような意志が、断固として否定する。


「逆だろ……シュンが死んだのは俺がクソ弱かったせいだ。俺はもっともっと、レベルを上げてなきゃいけなかったんだ。シュンや、母さんを、何が起きても余裕で守れるくらい、強く……! 間違っても、シュンを目の前で殺されそうになったとき、ただ叫ぶことしかできない無能じゃなくて!」


 母は、呆れているようにも、絶望しているようにも見える顔になった。


「あんた、なに言ってんの……? 強いとか、弱いとか、ゲームの話でしょ……? なんであんたが抱え込むの? 子どもを守るのは、親の役目に決まってるでしょ!?」


 その瞬間、俺は違和感の正体を悟った。この人は、あまりに簡単なことを、分かっていない。


「いつまで保護者面ほごしゃづら続けるんだよ! ここは地球じゃない!! 俺と母さん、今どっちが守られる側か考えろよ!!!」


 苛立ちに任せて声を荒げた俺に、まるで刺されたような顔で、母は硬直した。生まれて初めて母との口論を制した俺は、その動揺と快感で、余計なことまで口走った。


「いい加減、子ども扱いはやめろよ」


 ただ、それはずっと、腹の底で飼い続けてきた不満でもあった。


 父が稼いでこないので、母はこれまで、俺たち二人のために身を粉にして働いてきた。「『お父さんのせいでうちは貧乏なんだ』って、あんたたちに絶対言わせたくない」。それが母の口癖で、俺やシュンが欲しいと思ったものは、俺たちがたとえそれを口にしなくても、無理してまで働いて必ず買ってきた。


 そんな母を見て、俺はいつからか、早く大人になって母を楽にしたい、と漠然と思い続けていたように思う。


 父のいない家で、俺は精神的には父親の役割をしてきたつもりだった。母はいつも、職場の愚痴や生活の相談を俺にだけしてくれて、決まって最後は「頼りになるわ」と笑ってくれた。そのたびに俺は少しだけ、母に守られっぱなしの後ろめたさを、忘れることができた。


 この世界に来て、ようやく母の手をわずらわせないですむと思った。いや、むしろ、ここは俺の方が母を守れる世界だと確信した。嬉しかった。


 それなのに、なんでこの人は、俺を頼ってくれないんだろう。なぜ、いまだに俺を背中に隠して守ろうと、するのだろう。


 シュンにも同じ態度をとるだろうか。きっとしないはずだ。俺とは違う種類の信頼を、母はシュンに寄せていた。空手を一生懸命続けてきたから。


 この人にとって、俺は未だに、ひ弱なゲームオタクのままなのだ。どんどんどんどん、母の顔が、知らない女に見えてきた。


 黙って涙を流し続ける、母のその沈黙を、俺は都合よく解釈した。


「……俺、旅に出る。ハナミヅキを皆殺しにする。親父のセキュリティを破ったヤツを捕まえれば、この世界も元に戻せる。」


 一目でうちひしがれた姿の母は、馬鹿を見るような目を見張り、最後の力を振り絞るように、烈火の如く怒った。


「わ……笑わせるんじゃないよ、ハナタレが! 偉そうなこと言って、シュンにも勝てたことないんでしょうが! 米の炊き方すら知らないあんたが、どうやって旅に出るって言うの!?」


 思えば、このときの母の精いっぱいの、安すぎる挑発だ。俺はそれに簡単に乗った。


「……なにも、知らないくせに」


 シュンがどのようにして死んでいったのか。シュンを殺したのが、どんなにふざけたやつだったか。今、俺が、どれだけ強くなっているのか。この世界で米を炊く必要なんかないことさえ、あんたは知らない。


「いつまで勘違いしてるんだよ。俺はとっくに……」


 のちに、一生後悔することになる台詞を口にした。


「母さんがいなくたって、一人で生きていけるよ」


 母を楽にするために、母を守るために早く一人立ちしたかったはずの俺が、どれほどはなはだしい矛盾を口にしたのか、この時俺は、まるで気づかなかった。


 母は、もう、吹けば飛びそうなほど弱っていた。それでも必死で、首を横に振った。


「……旅なんて……絶対に、許しません……!」


「じゃあ、めてみろよ。レベル1の腕力でできるなら」


 ダメだ、口が止まらない。何もできない母を尻目に、俺は逃げるようにその場から離れて、自室へと向かう階段に足をかけた。

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