衝突-1
俺と母は、しばらくの間、今にも倒れそうなお互いをお互いで支え合うように抱き合っていた。気恥ずかしさなんて微塵もなくて、ただ、その温もりが俺に、辛うじて二本の足で立ち続ける力を与えてくれた。
やがて、どちらからともなく夕飯にしようということになり、俺達は食卓について、母が予め用意していた夕飯を食べ始めた。冷めた料理を仮想の胃に収めながら、ふと、隣の空席を見つめる。
つい昨日までここに当たり前に座っていたシュンは……いったい、どこにいってしまったのか。
食べ終わるかというところになって、数時間前の、けたたましいアラートとは一変した、穏やかなメロディーが街中に流れた。
以前からも時たま流れていた、運営からの放送を告げる音楽である。声の主は──父だった。
その、第一声に、世界が一斉に息を呑む気配がした。
『世界は、理想郷ではなくなりました。全て、私の責任です』
英雄。希望の象徴。いつも自信と説得力を
父は、己の罪を数えるように、今日起きた事実を語った。その一つ一つが、世界全域に、冷たく重たい
午後七時十五分。存在さえ極秘事項だった、ユートピア大陸の秘境に構えたアルカディアの本部が、突如、150名を越える武装集団に襲撃を受ける。
数もさることながら一人一人が手強く、駐在していた五名の研究員が決死の迎撃にあたるも、相当の苦戦を強いられた。結局、表向きは撃退に成功したのだったがーーその襲撃は、陽動だったと発覚する。
敵の狙いは、《GM《ゲームマスター》権限》。この世界の全てのシステムを操作する権限だ。敵は騒ぎに乗じて、それを盗み出した。
歴史的失態だが、シンジにも、GM権限が奪われるなど有り得ないと信じられる根拠があった。セキュリティだ。彼自身が造り上げた、暗号である。
詳細は多く語らなかったが、候補が
その暗号はそっくりそのまま、鍵を変えてかけ直されてしまった。現在は総出で解読に乗り出しているが、正直なところ、勝算はゼロに等しい。
GM権限は、神の力だ。アイテムや通貨の出現バランスはもちろん、モンスターの攻撃パターンにステータス変化、フィールドの気象設定やプレイヤーの健康状態に至るまで、システムは全てを管理している。GM権限があれば、それを文字通り、思うがままに書き換えることができる。
では、その力を奪った襲撃犯は、具体的に、この世界をどのように書き換えたのか。
いくつかある。シンジは、最も大きく、絶望的な改変について、一番最初に報告した。
プレイヤーの、“死”について。
父の口からそれを聞くまで、俺はどうしても希望を捨てられなかった。シュンは今にも何食わぬ顔で、そこの玄関から帰ってくるのではないかと。
だが、それは、俺がこの世界で誰よりも信じられる人物の言葉によって、明確に否定された。
これからプレイヤーのHPがゼロになるとき、従来のコンティニューシステムは機能しない。
それどころか、プレイヤーの体を格納しているカプセルは、システムの命令によって、永久に稼働を停止する。ーーその寸前に、内蔵バッテリーの中身全てを大放電して。
カプセルの中にいる人体は、ひとたまりもない。内蔵が一瞬で焼きレバーになるほどの感電で、即死だ。
母は泣き崩れた。俺は目の前が、何も見えなくなった。全てを父の口から聞き、シュンの最期を、ありありと想像した。
なぜ、シュンは、死ななければならなかったのか。死とは、人が最も忌避すべきものではないのか。
ダメージエフェクトが本物さながらの血に。街区で武器が抜ける。プレイヤー間の無制限攻撃が可能に。住居の
吐き気がした。犯罪を
武装集団の情報は、たったひとつ。去り際にリーダー格の男が名乗った、《ハナミヅキ》というグループ名だけ。
全てを報告したシンジは、「今はただ、家に物理的な鍵を着けて、外出は避け、そして私たちを……信じてください」と結んで、放送を終了した。母は机に突っ伏して、泣き続けた。
母のすすり泣く声だけが響く居間で、俺は、泥沼のような思考に溺れた。
父が創った、怪我も病気も争いも、死もない平和な世界を、理想郷を、いったい、誰が、なんのために、好き好んで書き換えた?
ゲイルの顔と、わめき声が、突如脳裏に浮かび上がる。
ヤツは、退屈だと、言った。痛みも恐怖も、死もない、こんな世界は退屈だと。
その瞬間、全てが腑に落ちて、酷い頭痛と目眩に襲われた。
理解できなくて当然だったのだ。今回の襲撃を企てたのは、揃いも揃って、あのゲイルのような異常者たちなのだから。向こうの世界ではみ出しものだった奴らにとって、システムの監視と絶対的な法の秩序が支配するこの世界は、さぞ不自由だったに違いない。
――そんな、理由で?
こめかみの奥に灼けるような痛みが走る。そんな幼児じみたエゴで、誠実だった俺の弟は死んだのか? 散々自分勝手に世界を書き換えておいて、いざ自分が殺される段になったら、ほんのジョークのつもりだった、死にたくない。
……は???
ゲイルの目玉に刀を突き刺す。血が出て、金切り声が上がって、目はぐちゃぐちゃになる。今度は、叫ぶため大きく開いたその口に、渾身の威力で刀を突き込む。
延々と、頭の中で、ゲイルを殺し続けた。何度も刺して、何度も斬って、数えきれないほど惨殺した。
それでも心は、晴れるどころか、血が滲み広がるように、どんどん暗く塗り潰されていく。こんな妄想だけでは、ダメだ。全く足りない。生身のゲイルを刺したときは、もう少し胸がすっとしたのに。
そうだ。
殺しに行こう。
ゲイルは下っ端だと言っていた。あんな人間が、アルカディアを襲撃した数によれば、少なくともあと150人以上いる。
シュンが死んで、そんなやつらが堂々と、この世界を我が物顔で生きているなんて有り得ない。絶対にあってはならない。死ぬべきだ。苦しみながら死ぬべきだ! 《ハナミヅキ》、お前らは、この手で、俺が、一人残らず――
「セツナ」
冷え切った俺の手を、温かい小さな手が包んだ。悪夢から覚めたような気持ちで、俺はハッと母を見つめた。
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