蒼炎-1

 喉にコルクを詰められたみたいに、叫び声が止まった。


 音の消えた世界で、見開いたシュンのとび色の目から光が失われていくのを、無呼吸で眺めていた。


 赤が闇夜に一線を引いて、スプラッシュする。のけ反ったシュンの体は、永遠にも思える一瞬硬直して、石畳に頭から転がった。


「し…………………………」


 声を奪われ、ただ口だけパクパクする俺の様子を面白がって、ゲイルは奇声を上げて笑い転げた。何がそんなに可笑しいのか、何一つ理解ができなかった。


 今日一番の爆笑をひとしきり続けたゲイルは、ふと足元のシュンに初めて気づいたような真顔になると、その体を雑に蹴り飛ばした。ごろん、ごろんと、シュンは俺のすぐ真下に転がってきた。


 いつの間に体の自由が戻っていたのだろう。無我夢中で屋根から飛び降り、シュンのすぐそばに着地すると、刀なんてそこらに放り投げ、ひしと弟を抱き上げた。


 ぐったりと動かないシュンの体は、重かった。


 細い喉笛が鋭い刃物でパックリ切られ、際限なく血を溢れさせ続けている。絶句した。こんな大怪我を負った人間なんて、見たことがなかったし、ましてそれが弟なんて。


 シュンの青白い顔を見つめると、ターゲット状態となった彼のHPが視界上部に表示される。半分を下回って黄色く染まったゲージは、なおも栓を引っこ抜いたようなペースで減少を続け、あっという間にレッドゾーンに突入した。


 この瞬間、俺は、あれほど強く感じていた悪い直感を迷いなくドブに捨てた。


「シュン! 痛かったよな、ごめん、ごめんな……! 先に家に帰ってろ、俺も、すぐに行くからさ……!」


 馬鹿な妄想をしたものだ。多少痛覚が鋭くなって、街中で武器が抜けるバグが発生したくらいで、杞憂にもほどがあった。


 シュンのHPがゼロになったからといって、何が起こるというのか。ただ自宅のベッドの上で復活するだけだ。これまで通り。俺だって、さっさと殺されてしまえば、むしろ家に歩いて帰る手間が省けるというものだ。



 ーーただ、あるべき姿に戻るだけさァッ! 痛みも、恐怖も、死も!! 何もかもねぇなんて、アルカディアはクソ退屈な世界を創ったもんだ!!!



 鼓膜にこびりついた、ゲイルのわめき声が、今さら何度も再生される。


「…………兄貴。……おれ、死ぬのかな」


 ハッ、と涙が塞いだ両目を開くと、潤んだ視界の向こうで、シュンが薄く目を開けていた。


「な、なに言ってんだ。俺たちの体は、地下シェルターのカプセルの中だぞ? 死ぬわけないだろ、馬鹿なやつだな」


 シュンは安心したのか、俺があまりに焦っているのが、おかしかったのか、微かに笑った。


「もし、オレが、家のベッドで目を覚ましたら……そのときは、笑い話にすればいいからさ。はぐらかさずに、きけよ」


 今にも空気に溶けて消えてしまいそうなシュンの声に、俺は口をつぐまされた。シュンのHPバーは、今、ゼロになった。


 途端に、見たこともないライトエフェクトがシュンの全身から放たれた。淡く柔らかい、はちみつ色の光だ。無数のポリゴンによって精緻に組み上げられたシュンのアバターが、光とともに透け、震える。形を保っているのもやっとの状態になる。


 シュンは、予感していた何かを確信したように、壮絶に顔を歪めて泣いた。


「あにきと……さいきん、ぜんぜん、あそべてなくて、ごめんなぁ」


 何を言い出すかと思えば。冗談じゃない。俺はすぐにでも言葉を遮ろうとした。しかし、吹けば散りそうなシュンの体に、今、どんな刺激を与えることもはばかられた。


「さいしょに……ふたりで、あそんだひが……おれ、いまでもいちばんたのしかった」


 少しだけ照れくさそうにこぼしたシュンに、俺は、ただ全力で首を横に振った。許さない、許さない、と、呪文のように繰り返した。


「許さないぞ、シュン……明日全部の約束ドタキャンして、俺とケントに付き合うぐらいしなきゃ、絶対……」


「あぁ……まかせろって」


「シュンッ!!!」


 適当なことを言う弟に、俺は腹の底から怒鳴って強く抱き締めた。どこにもいかないように、全力で押さえつける。


「あにき……………………死にたくねぇよ……」


 糸が切れたようにだらんとしていた手が、その瞬間、強い力で俺の腕を掴んだ。最後の最後で、年相応の泣き顔になったシュンの体が、光を強めながら大きく揺らぎ、そして。


 砕けた。


 シュンだった光の欠片が、無数に散り分かれて、泡のように天に昇っていく。強く強く、抱き締めていたはずのシュンの体の感触が、腕の中で、溶けるように消えた。


「……ぁ」


 腕をからぶらせ、反動で前のめりに倒れた俺の頬を、石畳が冷やす。「死んだ! 死んだ!」というゲイルの高笑い。それに交じって、無機質なアナウンスが、ひどく遠くから聞こえてきた。




『『Shun』さんのレガシーに触れました』


『『Shun』さんの持ち物と獲得総経験値が引き継がれます』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『ジョブチェンジが可能です』


『裏ジョブ出現条件達成済み。ジョブが自動で進化します。《ステータス》→《ジョブ》からいつでも変更が可能です』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』


『Level Up!』




 ……どれだけ、そうしていたのだろうか。俺は、ゆらりと体を起こした。


 石畳に一瞬で体温を奪われた俺の体のどこにも、もう、シュンの温もりを見つけることはできない。


「……帰らなきゃ」


 シュンと母が待っている。一歩踏み出しかけて、進行方向に、息もできなくなるほど抱腹絶倒している、禿げた赤毛の男が立ちはだかっていることに気づいた。


「か、帰らなきゃだって!! うひゃひゃひゃひゃひゃ! 帰ったって、もうどこにも、弟クンはいまちぇんよー!?」


 瞬間、俺の腹の底に、煮え滾るマグマのような異物が巣くった。それは内側から俺の体をき、掻きむしりたくなるような殺意で、俺を塗り潰した。


 近くに転がっていた、黒い刀に、自然と手が伸びる。なぜだか、随分刀が軽く感じた。少し苦労しながらも、左手一本でそれを拾い上げ、腰の位置に据える。


 つかに右手を触れた瞬間、今までと全く違う手応えがして、俺の中で、プツンと何かが切れた。



「――お゛せ゛ぇ゛よ゛ッ!!!」


 滂沱ぼうだの涙も溢れるままに、抜き放った刀から――闇夜の全てを明るく照らす、雲ひとつない空にも似た、蒼い炎が暴発した。


 ゲイルを付近の家屋もろとも吹き飛ばし、なおもあちこちで炸裂し続ける炎は、意思を持つ龍のようにとぐろを巻いて、俺の体に絡みつく。


 刀が、羽のように軽くなった。

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