崩壊-3

「……血」


 深紅に染まった自分の手のひらをみて、シュンは低く呟いた。体感したことのない激痛が腹を突き破っているはずなのに、そんな素振りは少しも見せない。


「おいおい、もっと泣き叫べよ。勝負も見えたろ? ケンカがちょっと強かろうが、お前のレベルじゃいくら殴ったって痛くも痒くもねェ」


「……やってみなきゃ分かんねえだろ」


 挑発的に白目を剥くゲイルに、シュンは腹を裂く痛みに耐え、勇猛果敢に突進した。ゲイルは舌を出して臨戦態勢。再び両者がぶつかり合い、ナイフの刺突しとつを躱したシュンの殴打が、右、左とゲイルの顔を激しく揺さぶる。


 優勢なのは間違いなくシュンだ。これが、現実世界の戦いであれば。


「もういい……シュン……」


 一人、屋根の上からその一方的な戦いを見ていた俺は、やっとの思いで絞り出した。


 シュンがいくら殴っても、ゲイルは起き上がりこぼしのように返ってくる。馬鹿にしたような顔で、しまいには自分から頬を差し出すまでになった。


 こんなの……こんなのフェアじゃない。


 シュンは今日まで、一日も欠かさず真面目にレベルを上げてきた。俺も挫折した途方もなく単純な狩りを、ただ父のプレゼントを身に付けるためだけに、毎日。


 レベルだけじゃない。戦闘力や、刺された痛みに眉ひとつ動かさない精神力は、彼が半生をかけて打ち込んだ武道の賜物だ。


 それを、こんなやつに。


 殴られるがままのゲイルのHP減少は、あまりに進まない。むしろ攻撃しているシュンの方が、スタミナの酷使と傷口の痛みで消耗していくようだった。


 たかが数字レベルが、たった二十、三十違うだけで、こんなに残酷な差が出る。レベル制MMOの理不尽さを、俺は、よく知っていたはずだ。なぜ、もっと強くシュンを止めなかった。


 ただでさえ、ここまで全力で走ってきたシュンのスタミナは限界を迎えていたのだろう。


 息も絶え絶えに繰り出した数十発目の拳は、力なく、ゲイルの額に受け止められた。


「……あれェ? 終わりかァ?」


 激しく酸素を求めるシュンに、ニタリと嗤ったゲイルは――未だ血を流すシュンの傷口に、目一杯振り上げた足を叩き込んだ。人間に蹴られたとは思えない威力で、シュンの体がくの字に折れ曲がる。


 シュンは吐血し、聞くに絶えない嗚咽を漏らしたが、吹き飛ぶことはなかった。シュンの体をしっかりゲイルが掴んでいたからだ。シュンはその場に崩れ落ち、「フーッ、フーッ」と見たことのないほど歪んだ顔で呼気を吐き出し続けながら、痛みと戦っている。


 あんなに……あんなに毎日頑張っていたのに。


 飽きもせず毎朝早くから家を出るシュンの笑顔を思い出したら、悔し涙を堪えられなかった。


 俺などでは計り知れない精神力で気を奮い立たせ、再び立ち上がりかけたシュンの頭を、容赦なくゲイルの革靴が踏みつけた。ミシリとむごい音がして、シュンの顔は石畳にめり込む。


「や……――やめろォッ!!!」


 とうとう言葉が音になった。ゲイルは「アァ?」と、屋根の上にいる俺を見上げた。


「向かってきたのはコイツだぜ? ビビりあがってたオニイチャンは、帰ってママに言いつけておいでよォ」


「お……俺が相手になる。シュンは、やめてくれ。た、大切な、弟なんだ。頼む、お願いします」


 震えてうまく声が出ない。シュンのように、かっこよくとはいかない。それでも涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、精いっぱい懇願した。


「ほォ」と愉しげに片眉を吊り上げ、ゲイルはシュンから足を離した。


「今度はオニイチャンがやるって? 武器はオレが持ってるけど、弟クンみたいに素手でかかってくるつもりか?」


 そう言われて、思い出した。


 武器なら、もうひとつだけ持っている。


 虚空に手を走らせ、素早くメニューウィンドウを展開。震える指を叱りつけ、どうにか目的のアイテムを物質化する。


 軽やかなサウンドエフェクトが駆け抜け、俺の目の前に、漆黒の日本刀が姿をあらわした。ゲイルの目が、それを見て爛々らんらんと光る。


 月夜に同化するその刀を、縋りつくように掴みとった。途端に凄まじい重さが腕にのしかかり、さやの先が屋根に突き刺さる。


「くぉ……っ!」


 ――やっぱり、まだ重い……! でも、両手なら、振り回せないほどじゃない!


 下半身に有りっ丈の力を込めて刀を持ち上げ、半ば引きずりながら左腰の位置に持ってくる。柄に右手を添えたところで、ゲイルはゲラゲラ嗤いだした。


「なんだその武器!? 重いのか!? ブハハハハ、そんなのどうやって使うんだよ!」


 知るか。シュンを助けられればなんでもいい。俺は刀を支える左腕と、柄を握った右腕に、それぞれ渾身の力を込めた。


「ぉぉぉォオ……ッ!」


 今の俺のジョブでは、この刀を抜くことはできない。そんなこと分かっている。だが――できないはずの街区抜刀が可能となり、町のど真ん中でプレイヤーキルさえまかり通ろうとしている今。


 たかがジョブが違うだけで、俺にこの刀を、抜けない道理がない。


「……抜、け、ろォォォ……ッ!!!」






『現在のジョブでは装備できません』




 どれだけの時間、愚直に力を込め続けただろうか。目の前に、いつも通り展開したシステムメッセージに、俺は何か、心にある蝋燭ろうそくの火を吹き消されたような気がした。


「……なんで、だよ」


 あいつの不条理はことごとくまかり通り、正々堂々鍛え続けてきたシュンは、得体の知れない力に、理不尽に痛め付けられて、クソ役立たずのシステムが、なんでこんなところだけ。


「……はぁ? 抜かねぇの?」


 失望した声が、俺を現実に引き戻した。


「クソつまんねぇ、チキン野郎が。そこで『大切な弟』が死ぬの見てろ」


 シュンの茶髪を乱暴に引っ掴み、背中を踏みつけて顔を引き上げると、晒された首筋に、俺のダガーナイフを沿わせた。


「知ってるかァ? プレイヤーのアバターにゃ即死部位があるんだぜ。頭とォ、心臓とォ、そしてココ、首筋ィ。ここに貫通ダメージが入ると一発で死ぬんだ。試してみるかァ」


 グイッと更に髪を引き上げて俺に見えやすいようにすると、ゲイルはナイフをくるりと持ちかえ、銀色に光る刃をシュンの白い首筋に触れさせた。ツー、とそこから赤い血が垂れる。


 身も凍る思いで、無茶苦茶に叫んだ。無音の時間が続けば、そのまま切られると思った。俺が何かわめいている間は、切らないでくれると思った。


「兄貴……」


 シュンの口が、そう動いたが、俺は叫ぶのをやめる気にはなれなかった。その目は強く、俺を睨んでいて、「逃げろ」と訴えかけるようだった。俺は叫びながら、必死で、死に物狂いで、刀を引き抜こうとした。


「あーうるせェ」



 さして躊躇ためらいもなく、ゲイルの右腕が真横にスライドした。

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