崩壊-1

 悪い夢を見ているのだ。


 鳩尾みぞおちに走り続ける、杭を打つような痛みに耐えながら、必死にその可能性にしがみついた。夢ならば、こんなに痛いはずがないのに。


 放送とアラートが消えるなり、町全体が揺れるようなざわめきに包まれる。それでも、俺に気づいてくれそうな人間の気配は、付近に毛ほども感じ取れない。


「ヒハハァ……上手くやってるみたいだなァ」


 町中が混乱しているなかで、ただひとり、俺を蹴り飛ばしたこの男だけが明らかなワケ知り顔だ。実に愉快そうに舌なめずりして、ダガーナイフをぺちぺち叩く。


「お……お前、何か知ってるな……? この世界に、何が起きてる……!?」


 ようやく痛みが収まってきた。よろよろと立ち上がり、どうにか気持ちを奮い立たせて詰問した俺に、男は「よくぞ訊いてくれました」と言わんばかりに爛々と目を血走らせ、身を乗り出した。


「何もォ!? ただ、あるべき姿に戻るだけさァ!! 痛みも、恐怖も、死も!! 何もかもねぇなんて、アルカディアはクソ退屈な世界を創ったもんだ!!!」


 こいつは何を言っているんだ。脳が麻痺したように、ろくに頭が働かない。憔悴しょうすいする俺の足元に、ズガン、と鈍い音を上げて、ダガーナイフが突き刺さる。


 俺の腰から奪っていたものを、投げて寄越したのだ。「拾えよ」、と、狂気じみた目が訴える。


「さっきは不意打ち悪かったなァ。お詫びに一発、刺させてやるよ。抵抗しねぇから思いっきりやんな」


 そう言っておちょくるように眉を上げて、両手を広げる。俺の声は情けなく上擦った。


「す、するわけないだろ。PK《プレイヤーキル》なんて運気ラックが下がる……ていうかそもそも、こんな町中で……」


「ーーごちゃごちゃうるせぇな」


 嘘のように真顔になって、男のギョロリとした目玉がひん剥かれる。


「さっさとやれよ、殺すぞ」


 冷や水を浴びたように、全身が縮こまった。俺は震える手を伸ばし、身を屈めて、命じられるがまま、屋根に深く突き刺さったナイフを引き抜く。


 殺すーーそんな言葉に、今やなんの脅迫力もないはずだ。この世界で人が死ぬことなんて、有り得ないのだから。


 それなのに、なぜ、こんなに恐ろしいのだろう。両手で握ったナイフが、ギラついた光を反射してブルブル震える。定まらない切っ先を無理やり男の方に向けると、男は興奮した表情で舌を出した。


 武器がこんなに怖いのは初めてだった。踏ん切りがつかない俺に、男は身がすくむほどの胴間声で喚いた。


「そうかァそんなに殺されてぇかァッ!!!?」


 一歩踏み出した男に対して、俺は絶叫を撒き散らした。無我夢中で男の体に突進し、目を固くつむって剣を突き出す。


 硬い風船を割ったような手応えに、吐き気がした。ナイフを強く握る手が、生あたたかく濡れていく。酸っぱい鉄の臭いが鼻孔を突き刺すのにハッとして、俺は目を開いた。


 視界を埋め尽くす、ドス赤い、血。


「ハハ……ハハハァ…………いてえ……」


 俺に腹を刺された男は、恍惚こうこつの表情で月夜を見上げていた。快楽に歪んだ口の端から、血の糸が垂れる。


 俺の突き込んだナイフが抉る腹からも、袋をいたように血が溢れ出し、黒いローブと俺の両手を、真っ赤に染め上げていく。あまりに鮮烈なその赤と刺激臭に、危うく胃の中身が逆流しかける。


「は……なん、だ、これ……?」


 血。全年齢対象の《ユートピア・オンライン》で、決してあるはずのないダメージエフェクト。今もなお男は湧き水の如く血を流し続け、さながら古い友人との再会を懐かしむような顔で、「痛え……痛え……」とあえいでいる。


「……痛えなァゴラァッ!!!」


 突如豹変した男の拳が、容赦なく俺の鼻っ面を殴打した。痛みより先に、鼻に猛烈な熱と衝撃が来て、チカッと視界に閃光が散る。


 吹き飛ばされた俺は、何が起きたかさえ分からず顔を押さえて泣きわめいた。間違いなく鼻が折れた。アバターは変形していなかったが、少なくともそれに匹敵する痛みだ。


「あー、いた、思いっきり刺してくれやがって。けどアレだなァ、リアルで刺されたときの痛みにゃ程遠いなァ。レベル差があるからか? ガキ、お前レベルいくつよ」


 激痛に声もなく七転八倒する俺をよそに、男は腹の痛みなどすっかり忘れたかのように、けろっとした顔でそんなことを訊いてきた。潤んだ片目をこじ開けて男の頭上に目を凝らせばーーそこに表示された緑色のHPバーは、たった2%ほどしか減っていない。


「おい、早く言え。殺すぞ」


「……に、21……」


「はァ、そんだけ? あんなに速ぇからてっきり俺と同じくらいはあるもんかとよォ。えーっと、53ひく21は…………あ? なんだ? まぁいいか、どうでも」


 男は俺への興味が失せたように冷めた顔になって、雑に距離を詰めてくる。俺の肩と屋根の間に靴の爪先をねじ込み、力ずくで仰向けにさせると、ドン、と遠慮なく腹を踏みつけた。


「うオェ……ッ!!?」


 激痛に見開かれる両目からは、ひっきりなしに涙が流れた。男は自分の腹に刺さったままのナイフを引き抜き、深紅の血をしたたらせるその銀色の刃を真っ直ぐ俺に向けて、高々たかだかと月光にさらした。


「遊んでくれてありがとよ。最後の実験、付き合ってくれるよな?」

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