第十九話 裏の仕事
宴の月の第十二、黄金の日。
夕方、ピペタ・ピペトは三人の部下と共に、前日と同じように、イスト伯爵の屋敷の警護を始めていた。配置は一日交替ということで、今日は最初の日と同じく、ラヴィがピペタと組んでいる。
「昨晩の二人の襲撃者……。そのどちらか、あるいは両方が、今晩また来るかもしれませんね。気を引き締めてかからねば!」
「ああ、そうだな」
「それに、もう一人の襲撃者も、今晩こそ現れるかも……」
ラヴィはタイガとは違って「あの黒ローブの怪人は、想定していた女襲撃者の一人ではない」ということを、正しく認識しているようだ。それは理解した上で「言われていた二人の襲撃者以外に、新しく別の襲撃者が出てきた」と考えているのだろう。
「うむ。イスト伯爵は、思った以上に敵が多い人物のようだな。まだまだ強敵が出てくるかもしれない」
「はい!」
「だが、無理はするなよ。警護の仕事も大事だが、できれば私は、誰にも怪我はして欲しくない」
「まあ! ピペタ隊長は、やはり優しいですね」
前日のピペタの「可愛い部下を傷つけたくない」という言葉を思い出したのだろう。ラヴィの声には、あたたかい気持ちが込められていた。
そんな調子で、二人は玄関前を固めていたのだが……。
空がすっかり暗くなった頃。
「ピペタ隊長!」
ラヴィが突然、大声で叫んだ。
彼女が見ているのは、二人の立っている場所から右斜め前方の方角だ。そちらに視線を向けて、ピペタも理解する。
庭に植えられている大木の枝が、不自然に揺れているのだ。風によるものならば、他の草木も同様に動くはずだから、その木のその枝だけ揺れるというのは、そこに誰かがいる証拠と思われる。
「ラヴィ、近づいて様子を探ってくれないか? 私は、この玄関前を守っているから」
いつものピペタならば、部下を危険に近づけるよりも、率先して自分が調べに行くところだろう。
だがラヴィは、ピペタの言葉に違和感を覚えたりはしない。
「はい! 昨日の汚名返上ですね。チャンスをくださり、ありがとうございます」
前日、黒ローブの怪人を逃してしまったのを、彼女は自分の責任だと思っているようだ。それを挽回する機会をピペタは与えてくれた、と解釈したのだ。
「頼んだぞ」
ピペタの言葉に送り出されて、そろりそろりと、問題の大木に近づいていくラヴィ。そちらに神経を集中させていた彼女は、近くの茂みに別の侵入者が隠れていることなど、全く気づいていなかった。
「ソムヌス・ヌビブス!」
その『別の侵入者』から睡眠魔法ソムヌムを食らって、ラヴィは、パタリと倒れた。
「上手くいきましたね、ピペタおじさん」
大木の枝の上で隠れていた
同時に、たった今ラヴィを眠らせたばかりのゲルエイ・ドゥが、茂みの中から姿を現した。
「ここまでは、あたしらの筋書き通りだね」
「裏門の方も、眠らせてきたのだな?」
問いかけるピペタに対して、ゲルエイは呆れ顔で返す。
「今『ここまでは筋書き通り』って言ったろ? そういうことさ」
ゲルエイの言葉通り、前もって打ち合わせた結果だった。
まず裏門を守るタイガとウイングを睡眠魔法ソムヌムで眠らせてから、屋敷の敷地内に侵入する。玄関前では、ケンを使ってラヴィの気を引いて、その隙に、やはりゲルエイの魔法で眠らせる。
これで安心して、ピペタたちは、裏の仕事を始められるわけだ。しかも「ピペタも襲撃犯の魔法で眠らされた」という話にしておけば、彼が疑われることもないだろう。
「おい、もう一人はどうした?」
「殺し屋かい? さあねえ、あいつも一緒に来たはずだけど……」
モノク・ローの姿は見えない。彼女は彼女で、イスト伯爵を狙って、先に建物の中に入ったのかもしれない。
「仕方のないやつだな」
「だから言っただろ。あたしは殺し屋を仲間とは認めない、って」
「そんなことより、ピペタおじさん。部下の女の人、そのままでいいんですか?」
木の上からケンが言葉を落とした。
確かに、この近辺は、戦場になる可能性もある。
「そうだな……」
頷いてピペタは、眠ったままのラヴィを抱きかかえて、邪魔にならない場所へと運んでやった。物陰の地面に、なるべくラクな姿勢で寝かせてやる。
「ここで休んでいてくれ」
スヤスヤと寝息を立てているラヴィに対して、なるべく優しい声で告げてから、ピペタはゲルエイのところへ戻った。
「では、
彼がゲルエイに対して言いかけたタイミングで、上からケンが叫ぶ。
「ピペタおじさん! 玄関から、誰か出てきますよ!」
ケンが木に登っていたのは、そこで陽動を行うためだけではない。高いところから全体を見渡すという、見張り役でもあったのだ。
さらにケンは、追加情報を与える。
「白い仮面をつけた、大男です」
イスト伯爵の使用人オウサム。ポリィの兄アンティの、成れの果てだ。
庭で騒動があったのに気づいて、イスト伯爵が送り込んできたのだろう。ピペタたち警護の騎士に任せずに、使用人を装った怪物を使うということは、この機会に全て始末してしまおうということなのだろうか。あるいは、ただ使用人が様子を見にきた、というだけかもしれないが……。
「そいつは、あたしらが相手するよ。あんたは、手筈通り、イスト伯爵を……」
「ああ、頼む」
この場はゲルエイとケンに任せて、ピペタは離れていく。玄関からでは怪物と鉢合わせするので、別の通用口か何かを探すしかない、と考えながら。
――――――――――――
玄関から出てきたオウサムが目にしたのは、庭の
「があぁーっ!」
言葉にならない声で唸りながら、威嚇するかのように両手を振り上げて、オウサムがゲルエイに向かっていく。かつて力自慢の好青年アンティだった彼は、現在では、武器を使わずに素手で戦うという怪物になっていた。
そのオウサムが、庭に生えている大木の一つの横を通り過ぎて、少し進んだ時。
「……っ?」
オウサムの首に、何かが巻きついた。
細い紐のようなものだが、その材質は明らかに、この世界のものとは違う。ケンによって『地球』という別世界から持ち込まれた、釣り糸だったのだ。
「ヒット!」
オウサムの頭上、木の枝の上で叫ぶケン。
彼はルアー
先端にルアーが結ばれた釣り糸は、二回、三回とオウサムの首に巻きついて、最後にルアーの針――トリプルフック――が、ガッシリと首筋に引っかかる。
それを確認してから、
「大物ゲットだぜ!」
もちろん、オウサムとは反対側に飛び降りたのだ。
これにより、地上でケンがリールを巻くことで、木の枝を滑車がわりに仲介して、釣り糸でオウサムを上方へ引き上げる形になる。
普通ならば、大男の巨体には釣り糸が耐えきれず、特に木の枝を擦るところで傷ついて、ぷっつりと切れてしまうだろう。だがケンの道具は、あらかじめゲルエイの強化魔法コンフォルタンで強度を高めており、糸も簡単には切れないようになっていた。
オウサムの位置的に、すぐに真上に引っ張られるわけではない。まずは大木の枝の真下へと、斜めに引きずられていくオウサム。足をバタバタとさせて、リールを巻くケンの力に対して、
「あんたの運勢、占ってやろうか?」
ゲルエイが、不自由な体勢のオウサムに歩み寄り、水晶玉を掲げてみせた。
復讐屋として標的を始末する場合の、ゲルエイのスタイルだ。
「……いや、占うまでもないね。あんたを待っているのは『死』だ」
通常のゲルエイならば、この台詞に続いて、魔法で眠らせた相手の頭を水晶玉でかち割るところだが、今回は違う。
黒ローブの怪人と同じく、オウサムも、イスト伯爵によって作られた生体兵器だ。それでは倒せないことくらい、ゲルエイも承知していた。
そして、もはや相手が人間でないならば、彼女の「攻撃魔法で人を殺してはならない」というルールには抵触しない、ということも。
「イアチェラン・グラーチェス・フォルティシマム!」
自分の長屋で黒ローブの怪人を仕留めた時と同じく、超氷魔法フリグガを唱えるゲルエイ。
あの時の再現のように、オウサムは凍りつき、それから粉々に砕け散った。
かつてアンティだったオウサムの、
「ポリィちゃん……。お兄さんの魂、確かに解放したよ。だから、お兄さんと、あの世で仲良く……」
ケンは夜空を見上げながら、天国のポリィに報告するのだった。
――――――――――――
同じ頃。
黒ローブの怪人もまた、イスト伯爵に命じられて、庭へ向かっていた。だが怪人は、玄関とは別の出入り口から庭に出る。まだ『襲撃者』を装うつもりならば、あからさまに正面玄関から現れるわけにはいかないからだ。
庭を通り抜けようとする怪人が、庭園内に設置された池の近くを通り過ぎた時。
怪人の背後で、ザバーッと大きな水音がした。
池に何かが飛び込んだ音ではなく、逆に、池から飛び出してきたような音だ。
「……!」
慌てて振り向く怪人だったが、もう遅い。水中から現れた人影により、怪人は背中に強烈な蹴りを叩き込まれ、大きく突き飛ばされた。その勢いで、怪人は派手に地面にすっ転ぶ。
怪人を翻弄したのは、赤髪の女暗殺者、モノク・ローだった。
今は黒装束の暗殺者スタイルなので、その特徴的な赤髪は見えない。また、今まで池に隠れていたので、全身ずぶ濡れという有様だ。
モノクは屋敷の建物に忍び込もうとして、正面玄関以外の侵入路を探すうちに、黒ローブの怪人が出てくるのを目撃した。だから、咄嗟に池の中に隠れていたのだった。
だが、怪人と戦うのを嫌がって、やり過ごそうとしたわけではない。背後からの奇襲という、有利なポジションを取りたかっただけだ。
モノクは火炎の日にも、この屋敷に忍び込んでいる。しかし、その時は黒ローブの怪人に阻まれて、イスト伯爵のところまで辿り着けなかった。だから怪人のことを強敵だと理解しており、今回は、怪人への対策も用意してあった。
「貴様も俺の標的だ」
モノクが、黒ローブの怪人に対して、死の宣告を与える。そして専用の懐中袋の中から小型ナイフを取り出し、立ち上がろうとする怪人に向かって投擲した。
右手で三本、左手で三本。合計六本のナイフが、黒ローブの怪人に襲いかかる。
蹴り飛ばされた拍子に剣を落としていた怪人は、両手を払いのけて、モノクの投げナイフに対処した。だが、弾き飛ばすことは出来なかった。怪人の腕に二本、残り四本は胴体部に突き刺さる。
もちろん、アンデッド要素のある怪人に対して、こんなナイフ攻撃は、普通ならば効果がないだろう。だが、モノクが投げたナイフは、ただのナイフではなかった。怪人対策として用意された、特殊なナイフだったのだ。
「アルデント・イーニェ……」
モノクが弱炎魔法カリディラを唱えると、六本のナイフが、大きく燃え盛る。
ナイフの柄の部分には布が巻き付けられており、その布にモノクは、たっぷりと油を染み込ませておいたのだ。モノクの暗殺道具を入れた『専用の懐中袋』は、強靭なだけでなく耐水性もある素材で作られているため、短時間水中に
ナイフの炎が燃え移り、すぐに怪人も火達磨となった。
「依頼は実行された。まずは一人……」
小さく言葉を発するモノク。
彼女の視線の先では、ぼうぼうと燃える怪人の最期が、まるでキャンプファイヤーのように、近辺を赤々と照らしている。
その明るさに引き寄せられたのか、オウサムを始末したゲルエイとケンの二人組が、いつのまにかモノクの近くに立っていた。
「おい、殺し屋。あんた、魔法が使えたのかい。凄いねえ……」
今の時代、魔法が使える人間なんて少ないはずなのに。
そう思って尋ねたゲルエイに対して、モノクは、冷たく答えた。
「見ての通りだ。俺が発動できるのは、弱炎魔法のみ……。それも、かろうじて点火に使える程度に過ぎない。こんなもの、火打ち石以下だろう。使えるうちには入らんよ」
だが火打ち石では、離れたところに刺さったナイフに着火させることは不可能だ。今回のモノクのような利用法を考えると、たとえ『かろうじて点火』程度であっても、暗殺者には便利なはず。
そう、あくまでも彼女は、謙遜しているだけだ。もしかしたら、少し照れているのかもしれない。
ゲルエイとケンは、モノクを見て、そう感じるのだった。
――――――――――――
トン、トンと扉をノックする音がする。
部屋の中で椅子に腰掛けていたイスト伯爵は、そのノックに、顔をしかめた。
彼は薄暗い部屋で、ただ静かに、火のついていない暖炉を見つめていたのだが……。その平穏を
「……誰だ?」
彼は椅子の向きを変えて、扉に向かって問いただした。
配下の者たちであるならば、イスト伯爵の静寂を邪魔しないように、静かに扉を開いて入ってくるはず。わざわざノックした時点で、招かれざる客であることは確実だった。
「ピペタ・ピペトです。入ります」
イスト伯爵の許可を得ることなく、ピペタは、勝手に部屋に入ってきた。
来てしまったものは、仕方がない。イスト伯爵は、ため息をついてから、ピペタに対応する。
「何の用ですかな? みなさんには、玄関から中には入らず、庭で屋敷を守るようにお願いしたはずですが……」
「はい、その件です。昨晩に続いて、複数の襲撃者が現れて……。しかも今日は、私たちをかい潜り、この建物の中に侵入されてしまいました。申し訳ない」
「それで、襲撃者を追走してきた、ということですかな?」
「そうです」
ピペタはそう説明するが、彼以外に、この部屋まで来た者などいない。もちろん、襲撃者がイスト伯爵を探して、建物内を右往左往している
「家屋には立ち入らないよう、最初の日に、君たちには言いつけたはずだが……。もう忘れたのかね?」
「ですが、それでは危険なので……」
「わしにはオウサムがいる。侵入者の一人や二人、あいつが撃退してくれる」
「ああ、あの仮面の使用人ですね。でも、その姿も見当たらないようですが……?」
確かに、送り出したオウサムが戻ってくる気配はない。そろそろ帰ってくるはずなのに、まだ来ないということは……。
その意味するところを察したイスト伯爵は、それまでとは口調を変えて、言い放った。
「そろそろ、白々しい嘘は
「嘘? いったい何のことやら……」
依然として知らんぷりをしながら、イスト伯爵に近づくピペタ。
もう十分だろう。
そう感じたイスト伯爵は、
「フルグル・フェリット!」
ピペタに対して、弱雷魔法トニトゥラを放った。
迂闊だった。
雷を受けて全身が痺れたピペタは、崩れ落ちながら、まず、そう思った。
勇者伝説の時代と比べて、魔法使いの数は激減したと言われている。だが、まだ魔法を発動できる者は、一定数存在しているのだ。ピペタの仲間であるゲルエイのように、市井の人間の中にも「秘密にしているが実は魔法を扱える」という者が、結構いるかのもしれない。
そもそも、イスト伯爵の正体がイムノ・ブロトである以上、彼は魔法医術に長けた人間だった。回復魔法が中心だとしても、少しくらい攻撃魔法が使えても不思議ではない。
ピペタは、もっと警戒しておくべきだったのだ。
あらためて考えてみるまでもなく、ポリィとの出会いから始まった今回の一件において、ピペタは、判断ミスや見落としを何度もしていた。それらが積み重なって、彼女を死なせてしまったようなものだ。そして今度は、ピペタ自身までもが危険に陥っている。
しばらく裏稼業から離れていた間に、なんと自分の感覚は鈍ってしまったことか……。ピペタは、ほぞを噛む思いだった。
「ふむ。わしの雷魔法では、しょせん、この程度か」
「わしを恨むなよ。先に命を狙ってきたのは、貴様たちの方なのだからな」
やはりイスト伯爵は、ピペタが最初からポリィとグルだった、と誤解しているらしい。
イスト伯爵は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、装飾品の掲げられた壁へと向かう。飾ってある品々の中で、一本の剣を壁から取り外し、しっかりと握る。式典用の剣だが、動けないピペタの命を奪うだけならば、十分に使える。
剣を手にして、ピペタに近づきながら、イスト伯爵は語る。
「わしは確かに、昔は酷い事もしてきた。若気の至りというやつだ。だが、もう五十年も昔の話ではないか。その後も、少しは研究を続けたが……」
そうだ。
彼は『研究を続け』ていたのだ。
イスト伯爵が、ポリィの兄アンティをオウサムという怪物に変えてしまったのは、そんなに古い話ではないのだから。
そう思いながらも、動けないピペタは、ただイスト伯爵の話に耳を傾けるしかなかった。
「……それだって、今は、もう完全に終わらせている! いくら新たな怪物を作り出したところで、今のわしでは、それを活かすことも出来ず、他人にうまく利用されるだけだと悟ったからだ!」
ポリィが推測していたように、生体兵器の開発技術が目当てで、イスト伯爵を支援していた者たちはいたようだ。しかし、この様子では、イスト伯爵の方では、あまり感謝していなかったのだろう。
激昂したような口調だったイスト伯爵は、突然、穏やかな態度に戻り、言葉を続ける。
「結局、今のわしは、静かに余生を送るだけの、無害な年寄りに過ぎない。そんなわしを、貴様たちは殺そうとしたのだ。返り討ちにあうのも当然だろう? 悪いのは、貴様たちの方だ」
ふざけた言い分だ、とピペタは思う。
イスト伯爵は、別に過去の罪を償ったわけでもなく、ただ逃げ隠れて生きてきただけだ。だからこそ余計に、被害にあった人々の恨みは消えておらず、仇討ちの対象となったのだ。
しかし。
「どちらが悪いのか……。それを決めるのは、私たちではない……」
痺れた体を何とか動かして、ピペタは、そう呟いた。
あの『幽霊教会』における集まりで、モノクにも告げたように。
善悪の判断をするのは、復讐屋の仕事ではない。
復讐屋は、ただ単に、依頼人の恨みを晴らすだけだ。
今回のケースでは「被害にあった人々の恨みが消えていない」というポイントのみが、意味を持つのであった。
「ほう……。まだ口をきくだけの、元気があるのか。やはり、わしの雷魔法は弱すぎる……。直接、手を
イスト伯爵は、相変わらず倒れたままのピペタの、すぐ近くまで歩み寄った。慣れない手つきで、式典用の剣を握りしめ、それを大きく振りかぶる。
だが、その凶器が振り下ろされるよりも早く。
グサリと、イスト伯爵の腹に、ピペタの騎士剣が突き刺さった。
「き、貴様……」
信じられないという顔で、動きが止まるイスト伯爵。
痺れて動けないはずのピペタだったが、言葉を発することが出来る程度に回復したならば、それだけで十分だった。口より先に手が動くのが、卓越した剣士だ。ピペタの力量ならば、少し手が動かせるだけで、近寄る老人を下から刺突することは可能だったのだ。
だが、まだ致命傷ではない。驚いているイスト伯爵が我に返って、再び動き出し、掲げた剣でピペタに斬りつけてくる前に、ピペタの方が先に老人の命を奪ってしまわないといけない。
そう考えて、ピペタは力を込めて騎士剣を押し込み、イスト伯爵の臓物を抉る。
「ぐふっ」
イスト伯爵が苦痛の呻き声を上げた、ちょうどその時。
黒い人影が、一陣の風のように駆け抜けて、イスト伯爵の喉笛を切り裂いていく。
殺し屋モノク・ローが、いつのまにか、部屋に入ってきていたのだった。
「貴様こそ俺の標的だ」
右手の鉤爪をイスト伯爵の血で濡らしながら、モノクが殺し屋として、死の宣告を口にする。
しかし、その言葉が、イスト伯爵の耳に届くことはなかった。
ピペタの剣によるものなのか、モノクの鉤爪によるものなのか、あるいは、その両方なのか……。イスト伯爵は、すでに絶命していたのだから。
「依頼は実行された。これで完全に……」
モノクが、小さく呟いた。
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