第十二話 投げナイフの美女

   

「ほう……」

 ピペタ・ピペトの口から、感嘆の声が漏れた。

 司会者に『投げナイフの美女』と紹介された彼女は、ピペタが街の中で見かけた時とも、イスト伯爵の屋敷の門前で戦った時とも、別人のような印象を与えていたからだ。

 まず、着ているものが違う。今の彼女は、髪色と同じ真っ赤なレオタードで身を包み、脚には黒い網タイツを履いている。ステージ映えする、魅惑的な衣装だった。このような格好だと、すらりと伸びた手脚が目立つし、豊満とは言えない胸だって、なめらかな膨らみが強調されるので、健康的な色気を漂わせることになる。

 衣装だけではない。舞台の上の彼女は、白い歯を輝かせて、客に向かって満面の笑顔を振りまいていた。闇夜の中で戦ったり、噴水の陰から殺気を送ったりしていた者と同一人物とは、とても思えないくらいだ。こういう表情になると、目尻の切れ上がった瞳も、きつそうな性格を匂わせる要素ではなく、クールな美しさの象徴に思えるのだった。

 客席も、今までで一番の盛り上がりを見せていた。ピペタが思うに、おそらく、ナイフ投げという演目自体は、客にとっては重要ではないのだろう。それよりも、レオタード姿の美人が舞台の上にいるということ、それを客席からジロジロと鑑賞できることの方が重要なはずだ。こういう見世物的な大道芸人であるならば、褐色がかった肌という珍しい肌色も、プラスに働いているに違いない。

「それにしても……。『投げナイフの美女』か。あの技術を、オモテの仕事でも活かしているわけか」

 ピペタと戦った時の彼女が、盗賊だったにせよ暗殺者だったにせよ。あくまでも、それは裏の仕事であって、オモテでは、こうしてナイフ投げの芸人として暮らしているらしい。

 客席からの好奇な視線を浴びながら、彼女は、用意された的にナイフを命中させていく。それも、普通に当てるだけでなく、目隠しで投擲したり、くるりと体を一回転させながら投げたり、という芸当も見せた。

「これくらい、出来て当たり前だろうな」

 ピペタは一昨日の夜に、彼女の投げてきたナイフを避けているが、あれは体が反射的に動いてくれた結果だった。頭で認識してから行動していたら、自分に命中していたはずだ。それを思い出しながら彼女の芸を眺めると、舞台の上の的が、あの夜の自分の姿に重なって見えて、ピペタは苦笑したくなってしまう。

 そして、ちょうどピペタがそんなことを思い描いていたタイミングで、シルクハットと燕尾服の司会者が、的の真ん前に立った。

 黒い正装の司会者に向かって、彼女がナイフを投げつける。大げさに怯える司会者の胴体部ではなく、そのシルクハットの上部に、ナイフが命中した。

 普通に考えれば、シルクハットの中にあるのは、司会者の頭部のはず。客席からは、息を飲む音や、小さな悲鳴が上がった。

「だが、血も出ていなければ、痛がる素振りも見せていないな」

 ピペタが冷静に見極めていたように。

 頭を投げナイフで刺されたはずの司会者は、客席に向かってニッコリと笑いながら、シルクハットを脱いでみせる。彼の頭には、傷一つなかった。続いてシルクハットの内側を見せると、そこには林檎が一つ、帽子越しにナイフで刺し貫かれた状態で入っていた。

 つまり、司会者は最初から頭に林檎を載せた上でシルクハットを被っており、赤髪の彼女は、帽子の中の林檎を狙ってナイフを投げて、見事命中させていたということだ。

 安堵のため息の後、観客は拍手喝采。彼女は一礼して、これで『投げナイフの美女』の演目は終わった。


「さあ! 続いての演目は……」

 舞台の上では、司会者が次の演者を紹介しているが、観客の中には、席を立つ者もチラホラ出始めている。おそらく『投げナイフの美女』目当てだった客が「もう満足」ということで帰るのだろう。

「では私も……」

 ピペタも立ち上がって、客席から廊下へ。注意して探すと、廊下には「本日の公演スケジュール」と書かれた掲示物があった。何度も繰り返される演目もあるが、どうやら『投げナイフの美女』は、一日に一回しか行われないらしい。

「なるほど」

 ならば、これ以上ここにいる意味はない。

 ピペタは演芸会館の外に出て、建物の周りをぐるりと見てまわった。裏に通用口らしき扉を発見したので、少し離れた場所から、そこを見張ることにする。

 もちろん、今日のピペタは、夕方までしか自由に行動できない。今晩もイスト伯爵の屋敷を警護する仕事があるのだ。

「それまでに出てきてくれればいいのだが……」

 少し心配しながら、待つことしばし。

 通用口の扉をくぐって、赤髪の女が出てきた。レオタードに網タイツというあでやかな舞台衣装ではなく、黒いブラウスとオレンジ色のスカートという私服姿だ。仕事が終わって、今から家に帰るという雰囲気だった。

「さて、どうするか」

 ピペタは彼女から、イスト伯爵についての話を聞き出したいわけだが、正直に問いただしても無理だろう。あの夜の黒ずくめの正体が彼女であることを、ピペタは確信しているが、彼女の方がそれを認めるとは思えない。

 かといって、ここで実力行使というのも論外だ。人目につく街の中で騒ぎを起こしても、民衆の目には「都市警備騎士団の役人が、罪もない一般市民をいじめている」としか見えないだろう。

「つまり『人目につく街の中』でなければいいのだ」

 本当に剣を抜くかどうかは別として。

 後々あらためて話を聞きに行くことを考えても、彼女の寝ぐらを突き止めることは悪くない。

 そう考えたピペタは、一定の十分な距離を保ちつつ、赤髪の女を尾行し始めた。


 赤髪の女は、西へ向かっているようだった。それも、だんだん人通りの寂しい地域へと入っている感じだ。

「ひょっとして……」

 ピペタは、彼女の意図を推測しつつ、ひたすら後を追う。

 しばらく歩くうちに、道ゆく人々だけでなく、家屋すら見えないような地域まで来てしまった。

 あらためて、ピペタは周囲を見回す。

 そこはススキの群生した野原であり、ちょうど宴の月――一年のうち十番目の月――という季節も相まって、ピペタの脳裏に『黄金の秋』という詩的な言葉が浮かんでくるような光景になっていた。

「この街に、こんな場所があるとはな」

 景色の美しさに心を動かされつつ、今まで知らなかった自分に対して、自嘲気味に呟くピペタ。

 もしも、スケッチの場所を探しているとか、自然の中を散策しているとか、そんな悠長な場合ならば、ただ「美しい景色!」と感動していればいいだろう。だが、今のピペタは違う。盗賊か暗殺者らしき人物を追って、このような人気ひとけのない場所に来てしまったのだ。これが意味するところは……。

「どう考えても……。とっくに尾行なんて気づかれており、私は誘い出されたのだろうな」

 再び、自分の愚かさに苦笑してから、ピペタは足を止めた。そして、前を行く女の背中に向かって、大声で叫ぶ。

「おい! そこの『投げナイフの美女』! 私に何か用事か? ここならば私とお前、二人きりだぞ! そういう場所まで、私を連れてきたのだろう?」


 彼女もピタッと立ち止まる。続いて振り返った彼女の顔は、冷笑しているように、ピペタには見えた。

 その表情のまま、赤髪の女は口を開く。

「俺に用があるのは、貴様の方ではないか。こそこそと、俺の後をつけ回しやがって」

 初めて彼女の声を聞いた。その容姿が醸し出す健康的な色気に相応しいつやっぽさと同時に、彼女の扱うナイフのような鋭利さも感じさせる冷たい声だ。女性なのに『俺』という一人称を使うのも、彼女の声色で聞くと違和感がないように思えてしまう。

 そうやってピペタが彼女の『声』に気を取られていたのは、ほんの一瞬だった。だが、その隙に、彼女は右の拳を突き出しながら、彼に突撃してきた。

「何っ!」

 ピペタが驚いたのも無理はない。いつのまにか彼女は、右手に黒い鉤爪を装着していたのだ。一昨日の夜に戦った時と同じ鉤爪のようだが、あの時とは違って、今回は両手ではなく右手だけだ。

 剣を抜く暇もなく、一瞬で距離を詰められたピペタは、体を捻って間一髪でかわした。

 赤髪の女は、突進した勢いのまま、ピペタの横を素通りするような形で行き過ぎてから、立ち止まって再び振り返る。

「あの夜と同じで、また、そちらから仕掛けてきたな」

 彼女と対峙しながら、ピペタは、そう口にする。実際のところ、頭の中では、少し違うことを考えていた。

 少なくとも彼女は『あの夜』ほど本気ではない。今の交錯の際に、空いていた左手を使うことも、前回のような脚技を披露することも出来たはずなのだから。

 そう思いながら、ピペタも剣を抜いて構える。

 彼の挙動に反応したかのように、赤髪の女は、ピペタの言葉に返答した。

「同じではないぞ。前の夜は、貴様が先に剣を抜いたではないか。俺は、やむを得ず貴様と一戦交えただけだ」

「なるほど、私が先に攻撃の意思を見せた、と言いたいのか……。では、今は、どういうつもりだ?」

「戦いたいであろう貴様の意思を、汲み取ってやったまでのこと!」

 叫ぶと同時に、彼女は再び突進する。


 今度はピペタも剣を構えており、応じる余裕があった。剣の間合いに入ったところで――まだ相手の拳が届かぬところで――、先に剣を振るう。

 そして斬撃と同時に、彼は言い放った。

「勝手に判断してもらっては困る!」

 言葉で相手の気を引いて、少しでも剣から注意を逸らしたいという魂胆だ。

 そんな小賢しい真似などせずとも、前回のような防御――両手の鉤爪を重ねることでガード――が無理な以上、この一撃で決まるという自信がピペタにはあったのだが……。

 ピペタの予想は、大きく裏切られた。相手は、右手の鉤爪だけで、ピペタの剣を受け止めたのだ!

 ピペタが、渾身の力で振り下ろした剣だ。その勢いを女の細腕一本で受け止めることなど、不可能だったはず。

 しかし赤髪の女は、鉤爪で剣を受け止めた右の腕を、さらに左手でガッシリと掴むことで補強して、斬撃の勢いに対抗していたのだ。

 気づいた瞬間、ピペタは、パッと後ろに飛び退いた。また蹴りを食らうと思ったからだ。だが、赤髪の女に、そんな素振りはなかった。

 いや、そもそも『気づいた瞬間』では遅かったはず。彼女が本気ならば、ガードと同時に、先日の夜のように蹴りをピペタのみぞおちに叩き込むとか、今度は意表をついて足払いをするとか、いくらでも攻撃のやりようがあっただろう。

「お前……。今日は手を抜いているのか?」

 ピペタの言葉に対して、彼女は、口元をニヤリと歪めた。

「俺がその気なら、今ごろ貴様は、地に倒れ伏していたかもしないぞ。だが、そのつもりはない。ただ、俺は話し合いたいと思っただけだ。拳と剣とを交えることでな」

 いや、それを『話し合う』とは、普通は言わないのだが……。

 しかしピペタは、心の中で反論すると同時に、少しだけ「なるほど」とも感じてしまった。確かに今日の彼女は、彼が思っていたよりも饒舌だ。あの夜の対戦からも、これまで見かけた感じからも、よく喋るというイメージは皆無だったのに。

「前の時も思ったが、これで確認できた。貴様……」

 拳の構えを解きながら、彼女は言葉を続ける。

「……ただの警吏ではないな? 貴様の剣さばきは、騎士のそれではなく、むしろ暗殺剣に近い」


 言われて、ピペタはハッとした。そんな剣術を披露した自覚はなかったからだ。

 しかし相手は、暗殺者にせよ盗賊にせよ、裏の世界で生きる人間だ。これまで数多くの剣士と命のやり取りをする機会もあったのだろうし、道場剣術と実戦剣術の違いにも敏感なのだろう。ピペタの無意識の所作の中から、そうした匂いを感じ取ったに違いない。

 ただし、自分の剣を『暗殺剣』と言われてしまうのは、ピペタとしては納得いかない。

 確かに彼は、かつて復讐屋として、数え切れないくらいの標的を始末してきた。だが金次第で誰でも抹殺するような殺し屋とは、一緒にして欲しくなかった。

 復讐屋が始末するのは、あくまでも「強者に踏みにじられた、弱者の恨みを晴らす」という目的のためだ。裏稼業には裏稼業の矜持があるのだ。

 そんなピペタの内心に気づいたのか、あるいは気づいていないのか。赤髪の女は、彼に向かって問いかける。

「だから問おう。貴様は、偽伯爵の正体を知っているのか? 警吏の騎士として屋敷の警護をしているのは表向きであって、裏では貴様も、偽伯爵の命を狙っているのか?」

 彼女の質問を耳にして、ピペタが最初に思ったことは「勝手に喋らせておけば、やはり多くの情報が得られる」ということだった。今の「貴様も偽伯爵の命を狙っているのか」という発言から考えて、彼女もまた、イスト伯爵の『命を狙って』いるのだ。

 つまり、一昨日の夜に屋敷の周りをうろついていたのは襲撃のための様子見であり、おそらくピペタが帰った後で、屋敷に忍び込んだのだろう。二人の襲撃者のうち、火炎の日の方は、この赤髪の女だったのだ。ピペタは、そう結論づけた。

 続いてピペタは、彼女がイスト伯爵を『偽伯爵』と呼んでいることが、少し気になった。都市警備騎士団の認識としては、イスト伯爵は、東の大陸からの亡命貴族のはず。そしてピペタは、イスト伯爵の出自が襲撃の遠因かもしれない、とも考えていたのだが……。

「偽伯爵とは、どういう意味だ? 身分を偽っているのか? あるいは……」

 相手は、ピペタに最後まで言わせなかった。

「なるほど、それが貴様の返答か」

 彼女から見れば、質問に質問で返される形になったはずだが、それでもピペタの言葉で納得できたらしい。

「つまり、貴様は偽伯爵の正体を知らなかったわけだな。それだけ聞けば十分だ」


 これで話は終わり、という雰囲気を彼女が見せるので、ピペタは慌てて叫ぶ。

「待て! 自分だけ満足せずに、私の質問にも答えろ! イスト伯爵とは何者だ? 東の大陸から来た伯爵様ではないのか?」

 赤髪の女は、一瞬だけ逡巡の色を顔に浮かべてから、再び口を開いた。

「イスト伯爵という肩書きは、真っ赤な嘘だ。そもそも東の大陸で『イスト』といえば、四人の勇者が集ったという、由緒ある村の名前だ。地域や地方、領地を示す名称ではない。だから『イスト伯爵』なんて伯爵家は存在しない」

 この王国の一般的な住人が知り得ないような、東の大陸の話だった。そういえば演芸会館で彼女は、司会者から「異国出身の褐色美人」と紹介されていたが、もしかすると東の大陸から渡ってきた者なのかもしれない。

 ピペタがそんな想像をしていると、彼女は、さらに重大な情報を与えてくれた。

「偽伯爵の本当の名前は、イムノ・ブロト。貴様も警吏の端くれならば、ブロト家については、簡単に調べられるはずだな? あの偽伯爵は、今でもあんな化け物を私兵として飼っているくらいだから……」

 この『あんな化け物』とは、ピペタも戦った黒ローブの怪人のことだろう。『化け物』と称される存在が、あの近辺に他にも存在するとは考えられない。

 つまり、一昨日の夜に怪人がイスト伯爵のところに逃げ込んだのは、アジトへの帰還だったわけだ。

「……貴様が守るに値する男ではない」


 要するに彼女は、ピペタに対して、屋敷の警護という仕事から手を引け、と言っているのだ。そのために、こうした情報をピペタに伝えたようだ。

 だが役人というものは、上からの命令には従わなければならない。警護任務を放棄したければ、イスト伯爵が偽伯爵だという証拠を――騎士団が守るべき善良な市民ではないという証拠を――揃えて、上役たちを説得することで、その任務を撤回してもらう必要がある。

 考えただけでも、面倒な話だ。それよりも、今回の警備の仕事を利用して、もう少しイスト伯爵に関わっておきたい。

 もちろんピペタだって、イスト伯爵が怪人一味の黒幕であるならば、本気で警護するつもりなんてなかった。だが、なぜイスト伯爵が黒ローブの怪人をポリィのところに差し向けたのか、それだけでも探り出しておきたい。ポリィは「酒場に来ていた怪しい客が関わっているかもしれない」と言っていたが、その話とイスト伯爵が、まだ繋がらないのだ。

 そうした調査をする上で、この警備の仕事は都合がいい。上手くやれば、屋敷の奥深くまで潜り込む口実として、利用できると思うのだった。

「俺が与えられる情報は、これくらいだな……」

 ピペタの思索を中断させるかのように、赤髪の女は言い放った。

 本当に、話は終わりのようだ。

「わかったな? 今後、偽伯爵のところで顔をあわせる機会があっても、俺の邪魔はするな!」

 そんな捨てゼリフと共に、彼女は突然、ナイフを投げつけてきた。

 以前と同じ、黒い小型のナイフだ。だが、今回は闇夜ではない。はっきりと目視できる。

 ピペタは剣で弾いたが、彼女が投げたのは、一度に三本。一刀で対処できたのは二本だけあり、最後の一本は、体を動かして避けるしかなかった。

 一瞬、ピペタの視線が、相手から外れる。その隙に第二投があったらしく、何かが風を切る音を、ピペタの耳が捕捉した。

 目で見るより早く、剣を振るいつつ、体を捻ってかわす。第二投も三本だったようだが、一本を剣で弾き飛ばし、二本は普通に回避する形となった。

 先ほどまで赤髪の女が立っていた場所に視線を戻した時には、すでに彼女の姿は消えていた。

「またか……」

 あの赤髪の女にとっての投げナイフは、逃走のために使う、煙幕の代わりなのかもしれない。

 そんなことを思いながら。

 黄金色こがねいろに染まるススキ野原の中で、ピペタは一人、立ちすくんでいた。

   

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