空いた月日を飛び越えて

 目を覚ますと、もうすっかり見慣れたマンションの天井が見えた。

 数十秒間、その真っ白な天井を見つめながら、今見たはずの夢を追った。

 目を閉じたら見失う。体を動かしたら消えてしまう。

 かすかに残っていた記憶はそれほどまでに儚く、まるで細い糸のようだった。


 その糸を切らないようにそうっとたぐり寄せながら、必死に他の糸を探す。

 絶対に失敗できない。

 内容は覚えていないのに、そう思った。

 なんだっけ、なんだっけ……。

 忘れてはいけないこと。大切なこと。光。影。人影――


 ――――――あ。


 思い出した瞬間、ベッドから飛び降りた。

 鏡のない鏡台まで走り、その上に出しっぱなしだった折りたたみ式の鏡を両手でつかむ。


「レオナ! ファルク! ジル!」


 指先が刺繍に触れる。見なくてもその感覚だけで素晴らしさがわかる。この鏡なら、もしかしたら。

 繋がれ。繋がれ!

 いるんでしょう? そこに――――!


「――朝っぱらから騒がしいですよ」


 呆気ないほどあっさりと聞こえてきた声に、力が抜けた。

 へにゃへにゃと腰を落とし、持っていた鏡を手放した。

 鏡に映った私の顔は、今にも泣き出しそうだ。


「ここ、集合住宅だろ? 近所迷惑じゃないのか?」

「迷惑だったろうな、確実に」


 三人分の声が聞こえ、涙腺がこらえる間もなく決壊した。

 誰のせいだと思ってんの。

 言い返したかったが、声にならなかった。


 ずっと探してたんだから。

 いきなりいなくならないでよ。

 心配したんだからね。


 言いたかった言葉もなにひとつ言えなかった。

 出てくるのは嗚咽ばかり。

 六年間飲み込み続けた感情が一気に溢れ出ているかのようだった。


  ~*~*~*~


 私が泣いている間、彼らはじっと待ってくれていた。

 話しかけるわけでも、慰めるわけでもなく、ただ静かに見守ってくれていた。

 顔が見えなくても、声が聞こえなくても、気配だけでそれがわかった。

 その久しぶりの感覚が嬉しくて、少しだけ余分に泣いた。


「泣き虫になりましたね」


 ようやく涙が治まり、ティッシュであちこちを拭っていると、そう言われた。


「……仕方ないじゃない。ずっと探してたんだから」

「ええ、知っています」


「だいたい、いきなりいなくならないでよ。わかってたんでしょ? 鏡が割れるって」

「ええ、軋む音がしていましたので」

「だったらせめて、そう言ってよ」

「お忙しそうでしたので」


 その言葉に、ぐっと言葉を詰まらせる。

 テスト前で焦っていた。静かにしてと叩きつけた。名前を呼ばれても無視した。

 全部しっかり覚えている。言えなくしたのは、私だ。


「……ごめん」

 謝ると、意外にも、

「いえ、申し訳ありません。少し意地悪でしたね」

 と返ってきた。


「実を言うと――和花にかける言葉に迷っていました」


 さよならと言ったら、もう二度と会えなくなるかもしれない。

 またいつかと言っても、再び会える保証などどこにもない。


「それでどうしようかと悩んでいるうちに、割れてしまいました。もう少し保つかと思ったんですが……甘かったですね。申し訳ありません」

「悪かったな」

「すまん」


 三人が三人とも、謝ってきた。

 うち二人はぶっきらぼうではあるが、本気で悪いと思っているのだろう。そうでなければ、謝罪の言葉なんて口にしない。そういう人たちだ。


「……なに? しばらく会わないうちに丸くなった?」


 彼らの謝罪がとても信じられなくて思わず言ったら、「和花は失礼になったな」と返された。


「それはともかく――いいのですか? 今日もお仕事があるのでしょう?」


 レオナの指摘にはっとした。

 電車の時刻まであと三十分。――やばい。

 慌てて着替えと洗顔を済ませ、必要最低限の化粧をする。


「ハンカチは持ったのか?」

「あーっ! 忘れてた!」


 タンスからハンカチを出し、鏡に向かって「他は大丈夫?」と訊いた。


「大丈夫だと思いますよ」

「いいんじゃねえの」


 ハンカチを教えてくれたもう一人の声は聞こえない。――ということは、大丈夫だ。


「ありがとう! いってきます!」


 部屋を出ようとしたら、ファルクが叫んだ。


「馬鹿! 持ってけ!」


 なにをとは言われなかったが、すぐにわかった。

 そうか、これなら持って行ける。


「たたむよ」

「はい」


 鏡を閉じると、気配は消えた。

 それでも彼らはここにいる。鏡を開けば、いつでも話すことができる。

 はばたく蝶の刺繍に触れながら、そっと鞄の中にしまった。

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