かがみよ、かがみ

 夏に帰省したら、姉が子供を連れて帰ってきていた。


「大きくなったね」

「うん。もう三歳だし」

「あ、もうそんなになるんだ」


 寝っ転がったまま手足をじたばたさせることしかできなかった時代は、いつのまに終わったのだろう。

 ついこの間のように思うのに、今はもう、自由自在に走り回っている。


 三歳、か……。

 私はあの一年くらいあとに彼らに会ったのか。

 無邪気な姪の姿を見ながら、そのときのことを思い出した。


 そんなことをしていたからだろうか。

 昼過ぎに姪が絵本を持ってきて「よんで」と言った。

 

「白雪姫……?」

「うん!」


 膝に座って目を輝かせる姪の頼みを断れるはずがない。

 まぁいいか、と思いながら、軽い気持ちで読み始めた。

 レオナやファルクみたいに上手にはできないけど、登場人物になりきって読もうと思った。

 だけど、台詞を言えたのは一部分だけ。


「“鏡よ鏡。この世で一番美しいのはだあれ?” すると鏡は答えました――」


 ――どんな回答を期待されているかは存じませんが、あなたでないことは確かです――


 聞こえるはずのない声が聞こえてきた。


 だからそれじゃダメだって言ったろ。こう言うんだよ――

 外見がなんだというのです。大事なのは心ですよ――


「……ちゃん? わかちゃん?」


 顎の下からの声で我に返る。

「……あ、ごめん。途中だったね」

 本読みに戻ろうとすると、「いたいの?」と訊かれた。

「え? べつに痛くは……」

 視線を追って頬に触れて、ようやく気づいた。自分が、泣いていることに。


「――ごめん。ゴミが入っちゃったみたい。ちょっと洗ってくるね」


 姪に膝から降りてもらい、洗面所へ向かう。

 三回ほど水で顔を洗ってタオルをとった。

 拭きながら、視界に入った鏡にそっと触れた。


「鏡よ、鏡……」


 小さな声で呟く。

 そのまま十数秒待つ。

 鏡は答えない。変わらずに私の顔を映すだけ。


 だが、頭の中では声が聞こえていた。


 “どんな回答を期待されているかは存じませんが、あなたでないことは確かです”

 “だからそれじゃダメだって言ったろ。こう言うんだよ”

 “外見がなんだというのです。大事なのは心ですよ”


 彼らに出会ったのは四歳のとき。もう、二十年も前の話だ。

 それなのに、どうしてこんなにも鮮明に覚えているのだろう。

 いっそのこと忘れてしまえれば楽になるのに――


 せっかくきれいにした頬が再び濡れた。

 しばらく、洗面所から出られなかった。


  ~*~*~*~


 ごめんね。なかなかゴミがとれなくて。

 下手な嘘に「だいじょうぶ?」と返してくれる優しい姪を膝に乗せ、絵本を持ち直した。


 読み聞かせは何度も何度も彼らにやってもらった。

 私が大好きだった彼らの真似をして読み進めた。

 地の文は淡々と、台詞は感情を込めて、声色も変えて。


 彼らほどうまくはないし、そもそも一人では声色もほとんど変えられなかったが、姪には気に入ってもらえたらしい。可愛らしい笑顔で「ありがとぉ」と言ってくれた。

 いつのまにか母と姉も聞いていたようで、感心するように「うまいわねぇ」と言った。

 少しだけ、彼らに近づけたようで嬉しかった。

 そういえば、と話を続けたのは母だ。


「和花は、読み聞かせるの嫌がったわね」

「え、そうなの? 私はよく読んでもらったけどなぁ」

「そうなのよ。“読んであげようか?”って訊いても、“いいっ!”って言って、二階に行っちゃったのよ」


 二人の会話に曖昧に笑う。

 確かにそんなようなやりとりをした記憶がある。一度ではなく、何回も。

 もちろん、そのやりとりのあと、私はあの鏡に向けて絵本を開いていた。

 誰かが近づくと、大抵はジルが「人が来る」と教えてくれたから、家族が知っているのは何故か鏡台の前で絵本を読む私の姿だけだ。


 “読んであげようか?”

 “いいの。ひとりでよむから、あっちいってて”


 そんなやりとりを何度しただろう。


「ひらがなもきちんと覚えていないのに楽しいのかしら、ってずっと思ってたわ」


 自力で読んでいたと信じている母の言葉には、また笑って誤魔化しておいた。


  ~*~*~*~


「うちのかがみも、しゃべる?」


 姪の無邪気な質問に、一瞬、呼吸が止まった。

「……どうかな。魔法の鏡じゃないとしゃべらないかもね」

 平静を装って答えたつもりだが、きちんと笑えていただろうか。


「まほうのかがみなら、しゃべる?」


 もちろん、と答えたいのをこらえて「かもね」と返す。

 頭の中ではまた、三人の声が聞こえていた。


 やってみたい、と目を輝かせた姪は、何故か母親である姉ではなく、ただの叔母にすぎない私の手を引っ張った。

 断るわけにもいかず、ついていった先は洗面所だった。


「かがみよかがみ。このよでいちばんうつくしいのはだあれ?」


 あのときの私のように、それが鏡を起こす呪文とでも思っているのか、姪は先ほど読んだ魔女の言葉を繰り返した。

 この鏡は散々試した。さっきだってしゃべらなかった。だからしゃべるはずがない――

 そう思いながらも一方で、もしかしたら、を捨てきれない。

 呪文を唱えたのが、あのときの私のような幼子だったから、いつもより余計に期待した。


 鏡は、しゃべらなかった。

 浴室の鏡も、玄関にある姿見も、姉が持ち歩いている小さな鏡も、実家にあった手鏡も。

 どれも、うんともすんとも言わなかった。


「――なんで和花まで落ち込んでるのよ」


 呆れたような声が聞こえたが、うまい返しが思いつかない。なんとか無理矢理笑ってみせたが、泣く寸前だということは自分でよくわかっていた。


「そういえば和花は、一回、鏡がしゃべったって言ってたわね」


 母の声に、体がびくりと反応する。

「しゃべったの?」

 食いついた姪に母が「ううん」と首を振った。

「おばあちゃんも試したけど、なんにも言わなかったわ」

 姪が目に見えてがっかりする。


「古い鏡でしゃべりそうな雰囲気ではあったから、期待したんだけどね」


 肩をすくめた母の言葉は、どこまでが本当なのだろう。

 すべてが本当なら、今ここで彼らの話をしても大丈夫かもしれない。

 だがやはりその勇気は湧かなくて、沈黙を続けた。


「そのかがみ、どこにあるの?」

「古い鏡だったからね。随分前に割れちゃった」


 母と姪の会話が心に刺さる。

 鏡を貼り合わせても、他の鏡をはめ込んでも、彼らの声は聞こえなかった。


 どうしたら彼らに会えるのか。

 まったく手がかりをつかめないまま、もう六年。

 諦めるという選択肢は、浮かぶだけで選べなかった。

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