会えない日々

 一年経ち、二年経ち、彼らがいない生活にもすっかり慣れた。

 それでもこの世に鏡がある限り、希望を捨てきれない。

 店で、トイレで、友達の家で……鏡を見つけるたびに、私は三人の名を呼んでしまう。レオナ、ファルク、ジル、と。

 そのたびにため息をついて下を向く。


 彼らはどこにいるのだろう。

 そもそも――生きているのだろうか。

 鏡の中の世界は繋がっていて、どの鏡からでもこちらの世界が見えるのだと、以前聞いたことがある。

 見えるけど、話せないのだと。

 あの鏡だけが、こちらの世界とコミュニケーションをとることができるのだと。


 “もちろん、すべての鏡を調べたわけではありませんけどね”


 会話ができる鏡を見つけた彼らは、その場に留まることを選んだらしい。

 他に同じような鏡を探す必要もない。


 “この鏡がある限りは、ここにいるつもりです。面白い話し相手もいることですし”


 この鏡がある限りは――

 なくなったら、どうするつもりだったんだろう。

 そもそも、どうして――あの鏡は割れてしまったんだろう。


 母は、音がしたから見に行った、と言っていた。

 そのとき、家の中には母しかいなかった。窓も閉まっていた。物が当たった様子もなかったらしい。

 だから母は寿命だと思った。


 私も、そう思う。

 だって、前日の彼らはおかしかった。

 忙しいのがわかっているのに話しかけてきたり、何度も名前を口にしたり、似合わない説教くさいことを言ったり。

 別れを予測していなかったら、いつも通りの明日が来ると思っていたら、そんなことしないはずなのだ、彼らは。


 問題は、寿命が来たのは鏡だったのか彼らだったのか――


 もしかして、彼らがいなくなったから鏡が割れたのだとしたら――


 このことを考えるたび、とてつもない恐怖に襲われる。

 目を瞑って首を振って、そんなはずはないと言い聞かせる。

 三人も一気に死ぬわけがないじゃない。

 そんな希望を大いに含んだ根拠にすがりついて、彼らは生きている、絶対にまた会える、と言い聞かせる。


 そうだ、彼らは生きている。

 生きていて、きっとあちこちの鏡から私を見て、ボロクソに言っているに違いない。

 一向にきれいになりませんね、とか、せめて勉強くらいできるようにならねえと、とか。

 きっと、言っているに違いないのだ――


  ~*~*~*~


 彼氏、作らないの?

 大学で訊かれた。きょとんとしていたら「かーれーし」とじれったそうに繰り返された。

 正直に言うと、その質問を受けたときの私の頭の中は「そういえば世の中にはそんなものがいたな」という感じで、とてもそのまま口にはできない。


「……や、私、こんなだし」

 たいしたことないと散々評された顔と、数年前よりいささか立派になった体格を盾に流そうとしたのだが、流させてもらえなかった。いったいなんのスイッチが入ったのだろう。


「でも和花、顔はかわいい系だし、今はぽっちゃり系も流行ってるから、作ろうと思えば作れるんじゃない?」

 親切なのか、正直なのか。

 上からの台詞は人によっては傷つくのだろうが、幼少時よりけなされ続けた私はノーダメージだ。色々と引っかかる部分は無視して「考えたことないし、まだいいよー」と返した。


「そんなこと言ってる間に、おばさんになっちゃうんだよ!」

 友人のスイッチは入ったままらしい。べつにいいよ、と返しそうになったのを、ぐっとこらえた。


「今なら若さでなんとかなるって」

「やー、そんなに結婚したいとも思ってないし」

「心変わりしたときには遅いんだよ!」

「そのときはそのときかなぁ」


 実際問題、私は結婚どころか彼氏の存在を考えたことすらない。

 子供の頃から、レオナたちがいたから。いなくなってからも、彼らに会うことばかり考えていたから。


「もー、そんなんでどうするの!?」

 ほんと、どうするんだろうね。いつまで私は、彼らのことを引きずってるんだろう。

「少しは格好を気にするとかさぁ」

 無理だよ。服を買いに行っても、鏡ばっかり気になるんだもん。

「化粧だってしてないでしょう?」

 だって――


「似合わないって言われたし……」


 適当に流すつもりだったのに、答えていた。

 似合いません。へたくそ。無駄な努力だ、やめろ……。

 彼らの声が頭の中で鮮明に聞こえてくる。


「――え? うそ。ごめんっ」


 何故か慌てた声が聞こえて、頬にハンカチを当てられた。

 そこまでされてようやく、私は自分が泣いていることに気づいた。


「ごめん。なんか傷えぐった? ごめん。私、口悪いってわかってるんだけど」


 必死に謝る様子に少し笑った。

 この友人は考えなしに喋るところはあるが、悪い人間ではない。そのことがわかっているから、友達でいられる。

 彼らと違って、毒を吐いている自覚は薄いけれども。


「ごめん。ちょっと、昔のこと思い出しちゃった」


 ハンカチを返しながら言うと、やはりなにか勘違いされた。


「辛い恋をしたんだね……」


 恋じゃないけどな。

 説明はできないので笑って誤魔化すと、涙の効果か今度は流してくれた。


  ~*~*~*~


 世の中、なにが幸いするかわからない。

 生まれて初めての彼氏は、その友人のおかげでできた。

 友人がよく歯に衣着せぬ物言いをしているのに、一向に怒る気配のない私を見て「とても心の広い人だな」と思ったらしい。

 一度は断ったのだが、「友達からでいいから」という言葉に押し切られた。

 友達として、出掛けたり一緒に食事をしたりする日々を過ごして一年ほど経ったとき、ふと気づいた。


 私、普通に過ごしているな。


 鏡を見つけるたびに気になって、誰もいないときを見計らって話しかける。

 そんな生活をずっと続けていたのに、彼といるときは鏡を気にしていなかった。

 そのことに気づいて、私から改めて交際を申し込んだ。



「彼氏、できたよ」

 家に帰って久しぶりに鏡に向かって話しかけた。

「私にだって、彼氏できるんだからね」

 精一杯、勝ち誇った顔が映っていた。


 映っていた、だけだった。

 声はしなかった。物音すら聞こえなかった。

 しんと静まりかえった鏡に映し出された勝ち誇った顔が、だんだんと崩れていく。

 崩れきる前に布をかけた。

 かけてそのまま、静かに泣いた。


 わかってた。この姿見はしゃべらない。

 わかってて、それでも彼らに知らせたかった。

 当たり前に傍にいた、あの頃のように――


  ~*~*~*~


 大学を出て就職して、私は家を離れた。

 あのとき母に買ってもらった姿見と、枠と机だけになった鏡台を持って。


 持っていくの? と家族は訊いた。

 机代わりに、と誤魔化した。

 本当は、手放せないだけだ。どうしても、どうしても。


 持っていったくせに見るのは辛くて、鏡があった部分には布をかけたまま。

 姿見も、洗面台の鏡にも、使わないときは布をかけるようにした。

 開いていたら、彼らからは私を見られるのかもしれない。

 でも私は、音のしない鏡がすぐ傍にあることが辛かった。


 遊びに来てくれた友人にも彼氏にも、「なんで布がかかってるの?」とは訊かれた。


「鏡、苦手でさ。使わないときは隠すようにしてるの」


 考えておいた答えを返すと、友人は、

「あー、鏡って見たくないものも映すもんねぇ」

 と納得した。

 彼氏は、

「あ、そうなんだ」

 と言って終わらせてくれた。


 本当のことを言うつもりはない。

 彼らの声がしないのだから、鏡を割られる心配なんてないのだけど――今ならわかる。あのとき、他の人に話さないように言ったのは、私を守るためでもあったのだと。

 私が鏡と話す頭のおかしい人だと思われないように、口止めをしたのだと。


 あんな頃からずっと、彼らは親切ではあったのだ。

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