突然の別れ
それは高校二年の春、新しいクラスにもすっかりなじみ、初めての中間テストで四苦八苦しているときのことだった。
テスト直前詰め込み型の私は必死に机に向かい、ガリガリとノートに数式を書き込んでいた。
頭と手をフル回転させて答えを導き出し、いざ回答を確認したら――違ってる。
どこで間違えたんだろう。使う公式はあっている。ここまでの答えもあってるし、その次の式は……と確認をしていたら、後ろから声がした。
「――和花。忙しそうですね」
わかっているのに何故声をかける。
「忙しいよ。明日からテストなんだから」
振り返りもせず、おざなりに返事をし、間違えた部分を探し続けた。
言外に「もう話しかけないで」と言ったつもりだった。
だが、さすが彼らはそんな私の都合など無視して話し続けた。
「毎度毎度、テスト前だけ頑張るな、和花は」
「毎日こつこつやるほうが身につくと思うぞ、和花」
「和花には難しいでしょうね。三日どころか一日しかもたなかったことが何回もありましたし」
「全教科毎日やれなんて言わんが、和花は生物が得意だろう? それだけでも――」
「あーっ! うるさいっ!」
我慢しきれなくて叫んだ。
「なんなの? 明日からテストって言ってるんだから、静かにしてよっ!」
一方的に叩きつけて終わらせた。
和花、と聞こえた声は無視した。
あとから思えば、このとき彼らはやたらと私の名前と呼んでいた。
黙っていることの多いジルが、積極的に話していた。
以前はどうとか、なんて言ったことのない彼らが、過去の話を持ち出した。
気づく要素は、いくつもあったのだ。
それでも、気づかなかった。
忙しいと切り捨てて、二週間もすれば点数も順位も忘れる中間テストを優先した。
~*~*~*~
翌日、三教科分のテストを終えて帰路についた。
そのときにはもう、前日の彼らとのやりとりをきれいに忘れていた。
頭の中にあるのは次の日のテストだけ。単語カードをめくりながら電車に乗り、降りてからは不審者に思われない程度にぶつぶつと英単語を繰り返していた。
「ただいま」
頭に詰め込んだ単語を落とさないように家の中に声をかけ、居間に続く扉を開けた。
「おかえり」
母の顔を形式的に眺め、二階に上がろうとすると、珍しく呼び止められた。
「なに?」
喋ると単語が抜け落ちそうなんだけど。
「あんたの大事にしてた鏡ね」
「うん」
えっと、ぴー、あーる、あい……。
「割れちゃったわよ」
ぜっと、いー……――は? 今、なんて?
「われ、た……?」
もう英単語なんて残っていなかった。一瞬で、すべてが吹き飛んだ。
「音がしたから見に行ったら、もう割れてて……寿命だったのかもね。随分古かったし」
母の言葉が頭を流れる。
嘘だとは思えなかった。だけど、嘘だと思いたかった。
「かがみ、は……?」
「危なかったから片付けたわよ」
「どこに……?」
「どこって、いつも不燃物を置いておく……って、和花?」
いても立ってもいられなくなって、玄関から飛び出した。
家の前を移動し、隣の家との間に入り込む。
置いてあったビニール袋を開けると、中から“割れもの”と書かれた紙包みが出てきた。
それを抱えて部屋に駆け込み、べりべりと包みを開ける。
割れた鏡に私が映った。
「レオナっ、ファルクっ、ジルっ……!」
三角に切り取られた私の顔に向かって呼びかける。彼らが「たいしたことない」と評する顔。よってたかってけなしてくる顔。
もう一度、もう一度……。
けなされてもいい。馬鹿にされてもいい。ボロクソに言われようと、けちょんけちょんに叩きのめされようと構わない。
だからお願い。もう一度、声を聞かせて――
「レオナ……ファルク……ジル……」
鏡はしゃべらない。物音すらしない。
いつも感じていた、そこに彼らがいるという気配が、どうしても感じられなかった。
元通りに繋げたら、応えてくれるだろうか。
鏡台に戻したら、応えてくれるだろうか。
縋る思いで破片を広げた。
――大丈夫、そんなに細かくはなっていない。直せるはずだ。
端の部分を取り分けていたら、後ろから声がした。
「和花……なにしてるの?」
咎める声ではなかった。心配が滲み出ていた。
「直す」
端的に答え、集めた破片を並べていく。
母は、それ以上はなにも言わず降りていった。
夕飯よ、と呼びに来るまで一人にしておいてくれた。
その優しさに感謝したのは、ずっと後になってから。
なにもかもをやり尽くして、呆然としていた私を抱きしめてくれたときも、私は涙を流すことしかできなかった。
「今度、新しいの買ってあげるから」
その言葉に「違う」としか言えなかった。
セロテープでつなぎ合わせた鏡は静かなまま。
いつもより潰れているとも、下から数えたほうが早いとも、せめて笑っていた方がマシだとも言わず、ただ私の泣き顔を映していた。
あのときよりずっとずっとひどい顔をしているはずなのに、なにも言われないことが、ひたすらに悲しかった。
~*~*~*~
数日後、母が「危ないから」と鏡を片付けに来た。
やめて、とは思わなかった。心のどこかで、ほっとした。
もうその鏡が話すことはないのだと、そのときには理解していたから。
何度も何度も話しかけて、そのたびに泣いていたから。
蔦の装飾がついた枠と小さな机だけが残り、代わりに、と母が新しい鏡を買ってくれた。
右上と左下に葉っぱの模様がついた姿見。
そもそもが余計な出費だったのに、模様の分、上乗せしてくれた。
それなのに――ごめんね、お母さん。
これは私が求めている鏡じゃないんだ。
私が欲しいのは、レオナとファルクとジルと話せる鏡。
値段が安くても、古くても、傷がついていてもいい。
彼らと話したい。
望むのは、ただそれだけ。それだけなんだ。
新しい姿見は、その望みを叶えてはくれなかった。
髪の毛がはねていても、スカートの裾がめくれていても、教えてはくれなかった。
あの鏡なら、忘れ物があるかどうかまで、毎日教えてくれたのに。
表面的には、笑って「ありがとう」と言った。
だがおそらく母は気づいていた。私がちっとも喜んでいないことに。
元気にしなきゃ。
そう思っても、ぽっかりと開いた穴が大きすぎて、すぐに落ちてしまう。
なんとか笑顔を作っても、気を抜くと涙がこぼれそうだ。
どうしてあのとき気づかなかったんだろう。ヒントはたくさんあったのに。
どうしてテストを優先してしまったんだろう。たかが中間テストだったのに。
どうして――彼らと、きちんと話さなかったんだろう。
後悔しても、あとの祭り。
彼らはいなくなった。私の前から。
さよならも、言えなかった。
ごめんなさいも言えなかった。
すっかり片付けられて枠だけになった鏡台は、もう二度と、喋らなかった。
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