本を読んで

 初めて制服に袖を通した日、やはり素直に褒めてはくれなかった。


「ごくわずかに大人びた気がしますね」

 レオナのその言葉は想定内だったが、ファルクの「馬子にも衣装ってやつだな」が当時の私にはわからなかった。


「孫……?」

「あぁ、“馬子にも衣装”ってのは――」

 彼らは昔から、首を傾げると丁寧に教えてくれる。おかげで随分と語彙が増えた。

 このときもきちんとわかりやすく説明してくれた。馬子の意味も、決して褒め言葉ではないことも。


「八年、か……」

 ジルがぽつりと呟いた。

「ええ、大きくなりましたね」

「主に横にな」


 ファルクの失礼な言葉に、

「そこまで太ってないよっ!」

 と言い返す。確かに細くはないが、太っていると言うほどでもない。

 今だって鏡に映っているのはむしろ健康的な――


「知っていますか? この鏡、少し細く映るんですよ」

「えっ? 嘘っ!?」

 慌てて腰回りをきゅっと押さえると、噴き出す音が三人分聞こえてきた。


「冗談です。八年も見てて、そんなこともわからないのですか」

「素直でいいな、和花は」

「しかし、その反応はなんだ? 少しくらい押さえたって体型は変わらんだろう?」


 顔が熱くなるのを感じて、無言で腰から手を離した。

 楽しげな笑い声がひたすらに腹立たしい。鏡台に乗せておいた布をつかみ、なにか言いかけたのを無視して鏡にかぶせた。

 着替えのときに向こうから見えないようにするためのものだが、こうすると何故か声も聞こえなくなる。


「しばらくそうしてて!」


 ぷりぷりしながら制服を脱いで、片付けて、本を開いた。

 書いてある文字を追って、追って、追って、ページをめくる。

 それを三回ほど繰り返したが、内容がまったく頭に入ってこなかった。

 戻ってもう一度読み直そうとしたが、気を抜くと視線が鏡に向かってしまう。


「…………」


 悔しいが、意地を張っても時間の無駄だ。

 諦めて立ち上がり、鏡から布をはがした。


「――あぁ、開きましたか。十七分三十秒……おや、このあいだより長くなりましたね」


 早速聞こえたレオナの声に、持っていた布をもう一度かぶせたくなったが、また同じことを繰り返すだけだ。そして彼らの毒舌も、さらにひどくなるに違いない。


「本、読んで」


 悔し紛れに布を丸めて放って、読んでいた本を鏡に向けた。


「読み聞かせですか? まだまだおこちゃまですね」

 軽口を叩かれたが、口調はどこか嬉しそうだった。


「絵本じゃねえのかよ。長そうだな」

 ファルクも乗り気だ。


 問題はジルなのだが――

 中身を見せるために本をぺらぺらめくっていると、

「台詞は読まんぞ」

 という了承の返事が聞こえてきた。


「いいですよ。台詞は私たちに任せてください。ジルは地の文で」

「久しぶりだなぁ。――よし、やるか」


 本を一旦閉じ、表紙のタイトルから読んでもらう。

 渋々、といった感じの、しかしまんざらもでもなさそうなジルの声が物語を紡いでいく。

 レオナとファルクの声が物語に色を添える。

 先ほどは一切頭に入らなかった物語が、色彩豊かに私の中に流れ込んできた。



 幼い頃、よくこうして絵本を読んでもらった。

 ジルは大根なので台詞を読むのを嫌がるが、レオナとファルクは「声優か」と思うくらい見事に役割を演じてくれる。

 特にファルクのお姫様は絶品で、その裏声が聞こえた瞬間、挿絵が動き出すようだった。


 そうかと思えば、ふざけてあり得ない声をあてて笑わせてくれる。

 眠るまでのシーンがカットされた『眠り姫』。王子様のキスで目覚めたお姫様がロボットで、しばらく笑いが治まらなかったっけ。

『裸の王様』の詐欺師が棒読みで服の説明をしたり、「王様の耳はロバの耳」という台詞が二倍速だったり、大臣が赤ちゃん言葉で喋ったり。


 そんなだったから、私は母より彼らに読んでもらうことのほうが多かった。

 本を鏡に向けないといけないので、挿絵は逆になるし、自分でめくらないといけなかったが、それでも彼らに読んでもらうほうが楽しかった。


 きょうはどんなおはなしになるんだろう――


 内容はすっかり覚えているのに、毎回、そう思ってわくわくしていた。

 今だって、何度も何度も自分で読んだ物語が、新しく姿を変えて私の前に広がっている。


 物語が終わる頃には、先ほどの苛立ちは跡形もなく消え去っていて、私は「ありがとう」と笑った。


「おこちゃまですね、まだまだ」

「世話がやけるなぁ」

「……これ以上長い話はやらせるな」


 彼らなりの「どういたしまして」に、くすっと笑う。


「――ああ、そうそう。先ほど乱暴に布をかけられたので言えなかったのですが……」

「な、なに……?」


「そんなに気にしなくても、和花は可愛いですよ」


 思いがけずストレートに褒められて、呼吸が止まった。

 私たちには、と続けられるまで。

 ――あぁ、でも、それでもやばい。めちゃくちゃ嬉しい。嬉しすぎて、なにも返せない。


 顔を隠して背を向けて、熱が冷めるのを待ってから鏡に視線を戻した。

 にやけたままの口元は隠したまま、先ほどの言葉に返す勇気は湧かなくて、こう言った。


「また、本、読んでくれる……?」


「もちろんです」

 その言葉に、ほっとした。

「じゃあ……また、よろしく」

 極力平静を保ちながら、そう約束した。



 約束したから、安心していた。

 いつでも、頼めば読んでくれると思っていた。

 だから逆に頼まないまま月日が過ぎて、

 約束が果たされないまま、彼らは突然――いなくなった。

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