毒舌な鏡と話すこと
おかあさんもやってみて。
私に催促されて、母は鏡台の前に膝をついた。
「鏡よ鏡。この世で一番美しいのはだあれ?」
鏡は、反応しなかった。
「なにも言わないね」
「なんで? さっきしゃべったじゃん! ねぇ!」
ぺちぺちと鏡を叩いてみたが、声は聞こえなかった。
「……おやつ、食べに行こっか」
「さっきはしゃべったんだよ! さんにんもいたんだよ!」
「うん。今はお休みしてるのかもしれないから、またあとで来よう」
そう言われて、仕方なく居間に下りた。
いつもならゆっくり食べるおやつを押し込むように平らげて、また母を連れて鏡の前に行った。
祈るように見つめていたのに、そのときもなにも聞こえなかった。
「話さないね」
「うん……」
「おかあさん、洗濯物たたんでくるね」
「うん……」
そうして母が階段を降りていった瞬間――
「すみませんが、他の方には言わないでもらえますか?」
鏡はあっさりと口を開いた。
~*~*~*~
私がそのとき真っ先に発した言葉は、
「なんでさっきはだまってたの!?」
だったと思う。
鏡が話したという恐怖より、母に信じてもらえなかった悔しさが勝ったのだ。
それに対して鏡は(正確にはレオナは)、「はー、やれやれ」という感じでこう返してきた。
「仕方ないでしょう。鏡が話してはいけないのですから」
「……いけないの?」
「あなただって怖がっていたじゃないですか」
あ、そっか。おかあさんもこわがらせちゃうね。
幼い私は、それで納得した。
話してはいけない鏡が私には話しているという矛盾には気づかなかった。
「怖がられるだけならいいんですけどね。捨てられたり割られたりするのが嫌なんですよ」
「すてられちゃうの!?」
「そうですよ? 話す鏡なんて気味の悪いもの、手元に置いておきたくないんでしょう」
「きみのわるい……?」
「あ、えーっと……“なにが起こるかわからなくて怖い”というような意味です」
丁寧に言い換えてくれた言葉には、一瞬納得した。
だが、すぐに疑問が湧いた。
「なにかおこるの?」
「起きませんよ。話すだけです」
「じゃあ、いいじゃん」
そう返した瞬間、ふわっと空気が柔らかくなったような気がした。
「それで済ませられる方は少ないんですよ。
――ああ、“済ます”というのは、“終わらせる”とか“片付ける”という意味です」
なんとなく、声が優しくなっていた。そしてまた、丁寧に言い換えてくれた。
「あなたは、今は怖くないのですか?」
「うん」
「では、私たちのことは内緒にしておいてください」
「うん、わかった!」
勢いでそう答えたが、実を言うと、母には言いたかった。
信じてもらえなかったのも悔しかったし、この不思議な鏡の話を一緒にしたかった。
初めは怖がるかもしれないけど、きっとすぐに怖くないってわかってもらえる。
幼い私はそう信じていた。
言わなかったのは、もしかしたら――、と思ったからだ。
もしかしたら、捨てられるかもしれない。割られてしまうかもしれない。
この魔法の鏡と二度と話せなくなること。
それがこのときにはもう、嫌になっていた。
~*~*~*~
それから毎日、私は鏡に話しかけに行った。
不思議がる両親には「このかがみ、かっこいいんだもん」と言っておいた。
もちろん、話しかけるのは一人のときだけ。
顔を近づけて、部屋の外の足音にも注意して、秘密の会話を楽しんだ。
よほど気に入っていると思ったのだろう。
三年生に上がるとき、母が「あの鏡台、あげるわ」と言ってくれた。
ありがたいことに、四つ上の姉も「あんな古いの、いらない」と言ってくれた。
それからずっと、鏡は私の部屋にいる。
相変わらず毒舌で、情け容赦ない言葉を私に向けてくれる。
例えばテストで百点をとったとき、
「ねぇ見て! 百点だったんだよ!」
と報告すると、鏡は決まってこう応える。
「おめでとうございます。――それで、そのテストは何点満点なのですか?」
「……百点」
「へぇ、じゃあ満点とったのか。なら、はじめからそう言えよ。わかりにくい」
そのあとみんなでそれなりに褒めてくれるが、このやりとりは必要らしい。
次ははじめから「満点だった」と言おうと何度も思ったが、残念ながらそのことを覚えているうちに“次”がくることがなかった。
そしていつも「やった! 百点だ!」という気持ちのまま伝えてしまう。
そしていつも「何点満点なのですか?」と訊き返されていた。
例えば髪を切れば、
「少しはまともな姿になりましたね」
「そんな言い方ねえだろう。
その顔を最大限によく見せてると思うぞ」
「物事には限度があるがな」
新しい服を見せれば、
「可愛いですね、その服は」
「わざわざ“は”を強調するな。他の服が可愛くないみたいじゃねえか」
「――あぁ、すみません。他の服も可愛いですよ」
「……中身を褒めろ、中身を」
「中身はいつも通りです」
「そうだな。いつもと同じだ」
ちょっと色気づいて化粧とかしようものなら、
「似合いません」
「へたくそ」
「無駄な努力だ、やめろ」
そんなわけで、私は彼らにまともに褒めてもらった覚えがほとんどない。けなされてばっかりだ。
それなのに私は、彼らと話すのが好きだった。
がっかりもムカムカもするのに、彼らがいない生活なんて考えられなかった。
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