第3話「満水ハウス」

 平野が社長をつとめる満水ハウスは、戸建やアパート建築の最大手だ。

 社名の由来は孫子の兵法から取られている。

『勝者の戦いは、積水を千仭の谷に、決するがごとき、形なり。』

 この意味は、勝利者の戦いというものは、満々とたたえられた水(積水)を深い谷底に切って落とすように、たちまちのうちに勝敗が決まるというものだ。

 積水だと格好が良すぎるので、初代社長が親しみやすいだろうと満水ハウス工業と名付けた。その後、より親しみやすい名前とするために『工業』を外し、満水ハウスとなった。

『振り返れば、満水ハウス』のテレビCMでお馴染みの押しも押されぬ大企業だ。

 平野が社長に就任して、もう少しで10年経つ。

『もう10年か。あのお人もトップについて20年。いまだに健在だが、いつまでトップとして会社を引っ張っていかれるおつもりだろうか。』ふと、そんな思いが平野の頭の中をよぎることもある。

『あのお人』とは、平野の唯一の上司だ。オクダイラトオル。漢字で書くと、奥平透。満水ハウスの中高の祖といわれる実権者だ。満水ハウスの代表取締役会長兼CEOを担っている。

 昨年には紫綬褒章を受賞し、もはやプレハブメーカー業界の顔といっても良い。

 平野は経営企画部長兼務の常務取締役として社長に就任したばかりの奥平を支えてきた。忠実に、誠実に。血の気の多い奥平の無茶な指示にも従い、満水ハウスを成長させてきたのだ。


 奥平の社長在籍期間が10年となった頃、奥平から誘われてリーガロイヤルホテル大阪のバーで二人で飲んだ。あれは、一緒に出席していた何かの会合の後だった。事前に「今夜空いていないか」と誘われていた。

 ホテルのバーでは奥平が先に来ていた。カウンターで一人座っている。背筋はピンと伸びている。オールバックの髪型、少し光沢のある仕立ての良いグレーのスーツ、シルバーの縁の眼鏡。誰もただ者とは思わないだろう。オーラがある。

 今はあまりお酒を飲まなくなったが、当時の奥平は酒豪だった。バーボンのロックを左手で持ちながら、手を挙げて迎え入れられたことははっきりと映像として覚えている。

 奥平の右手に座り「同じものを。」とバーテンに注文したはずだ。乾杯をしてすぐに奥平が口を開いた。

「なあ、平野。僕もな、経営トップとなって10年経ち60歳台半ばとなったわ。長かったなあ。世代交代を見据えて自分に社長を頼みたいんや。この会社の将来を頼むぞ。断るなよ。自分に選択肢はないで。」

 急だった。この人はいつも直球勝負だ。

 自分の苦労をしっかりと見ていてくれたのか。ついてきて良かった。涙がこぼれそうになった。平野は下の名前を『めぐみ』という。漢字にすると『恵』だ。社内では奥平に付き添っているから、ヒラメと言われていた。ヒラノメグミを略してヒラメだ。

 奥平の言葉に、何と返したかは覚えていない。ただ、この人にこれからも付いていこうと決意したことは覚えている。それ以来、平野は奥平に忠誠心を誓ってきた。

 現在、平野が社長になって10年。

 奥平は社長になって10年、会長になって10年経っている。

 残念ながら、この会社は平野がいなくても回る。しかし、奥平がいなくなれば動かなくなるかもしれない。

 いつまで奥平は会長の座にいるのだろうか。平野には、ふとそんな考えがよぎることが最近増えてきていた。

(続く)

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