細い線の魔法は用途によって変わる(カナエ)
「ミッション終了」
とあるホテルの一室。
暗号処理し傍受できない端末を片手にカナエはピアノ線をバッグにしまった。ピアノ線は便利だ。これだけ細くも強靭な武器があっただろうか。鋼鉄と炭層の合金であるピアノ線。蛍光灯の光にピアノ線をかざす。見る角度によって色合いが変わる。母親の言葉が思い出された。
「この細い線はね、魔法よ」
その魔法の線を殺傷のために使用している。人生というのはどこかで道を踏み外し、軌道修正の可能な段階を誤ると、後戻りはできない。
カナエは白衣を着てピアノ線で首を絞められた男の前で手を合わせた。罪悪感があるわけではない。儀式だ。儀礼的なもので心のざわつきが抑えられるなら、なおいい。だが、それは難しいだろう。カナエも心がないわけではない。罪悪感がない、と言っておきながら矛盾はしている。それはわかっている。というのも白衣を着た男のパソコンのデスクトップは家族三人の画像だった。屈託のない笑みを浮かべ男の子がサンドウィッチを持っている。口元には食べかすが付着していた。父親が死に、残された母子はどうなるのだろう。保険はかけていたのだろうか。預貯金はあるのだろうか。企業から慰労金はでるのだろうか。少なからず干渉に浸ってしまう。だが、この男は優秀すぎた。優秀な人間が優れた人間ではない。男は児童買春を行っていた。さて、母子がこの事実を知ったらどうなるだろうか。ピアノ線で絞め殺すのではなく、児童買春を行っていた事実を突きつけるのも悪い考えだと思ったが、「俺は真面目に働いていたんだ。少しは遊んだっていいだろう」という男の言葉には興ざめと虫酸が走り、「アディオス」と彼女は冷淡な声を放ち絞め殺した。
そうだ。あと一仕事残っていた。むしろ、こちらの方が重要だ。
カナエは新薬の治験結果と調合方法のデータを自分の端末に男のパソコンからダウンロードし、クライアントとボスに送信した。
物の価値は人それぞれ。医薬品業界はカナエにとって無価値に等しいデータを欲しがり、利権を貪る。何も知らない大多数の人間は厚生労働省の認可が下りたという確証が得られれば、薬を服用する。薬は気休めに過ぎない、カナエの持論だ。
全身の鏡があり、髪色をチョコレートブラウンにしたのはいいけど、髪が少し伸びたかな、と毛先を探った。毛先に程よくあてたパーマをカナエは気に入っている。いつもはコテを使っていたのだが、めんどくさくなった。仕事を終えた後は、どうしても肌荒れが激しい。睡眠とコラーゲンをしっかり摂らないと。頬をパンパンと叩き、カナエはホテルを後にした。
カナエの職業は表向きはスパイであり殺し屋であり用途によって変化する。大概、仕事は夜中に行われるのが常だが、昼夜は問わない。早朝の場合もある。夜に殺しを行うより早朝に行う方が効率がいい。寝起きの人間ほど思考は鈍化し、行動に俊敏性はない。別に完全犯罪を目論みアリバイ工作をする必要はカナエにはないのだ。それはフィクションの世界であり、現実の世界は大方の物事と同じで、単純、この二文字に尽きる。
夜の空には、撫で回したくなるようなまん丸の月が輝いていた。光の加減は強く、広範囲を照らしていることは明白だった。カナエは夜道を缶ビールを片手に歩いた。仕事終わりはサラリーマンと一緒で、ビールに限る。喉を潤すといよりは喉に刺激を欲していた。
都会のネオンサインは煌々と灯り、電力メーターが休眠する日はあるのだろうか、と思った矢先にカナエは若者にナンパされあしらった。
「ちぇっ、お高くとまってんじゃねえよ」
という負け惜しみの言葉をきくのが快感でもあった。むしろカナエが悪いのではない。魅力のない、あなたたち、に問題があるのだ。論点をずらしてはいけない。男というのは可哀想な生き物であり、常に頭の中は女の裸で埋め尽くされている。間違いない。断定できる。どんなに偉そうな男も、どんなに格式高い男も、どんなに優秀であろう男でも、頭の中は女の裸だ。服を着た女を脱がすことだけを考えている。どうやってベッドインまで持っていくか、意識下にあることは間違いないだろう。そこまで女のことで一杯ならば、女を使ったビジネスを起こせばいいのだが、それはそれで問題が勃発だろう。女性差別だ。女性を卑下している、と歴史的背景を振りかざし、ああでもない、こうでもない、論争が巻き起こり、決着は見ない。なににせよ女という生き物は時代が変わろうが、弱い生き物でもあり強い生き物だ。よくいうじゃないか、男には強き腕力を与え、女には強き心が与えられた、と。
大型のビジョンのテロップには自動車事故があったと報じられた。ホテルで男が殺害されていることは報じられていなかった。証拠は何もない。男とカナエを結びつけるものはなにもないのだ。クライアントも海を渡った辺境の地である。マネーロンダリングの資金移動と一緒だ。ある程度、ほとぼりが冷めた頃に情報は日本に戻ってくる。全てはうまくローテーションされ、最初の情報を元に改良され、より優れた物となって市場に出回っていく。
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