知っているところに行って、知らない誰かに会う

 カナエは空き缶をゴミ箱に捨てた。右手を上げ、タクシーを拾った。運転手に向かい、自宅までの大まかな場所を伝え、タクシーは走り出した。

「今日は転換点になりますよ」

 運転手は口を開いた。

 思わずカナエは、ハッ、と口をついて出た。


「忘れていたものが呼び起こされるかもしれません」


「あなた何を言ってるの?」


「いえね」ヒヒヒと肩を上下させ、「予言めいたもにハマってまして」と運転手は言った。


「流行ってないでしょ」


「ご名答。加齢臭と煙草のように煙たがれます」

 運転手の声のトーンは下がった。


「気休めを求める人はいるかもね。予言で」


「ご名答」


「あのさ。突然声のトーンが低くなるのと、『ご名答』はやめた方がいいわよ。なんでかわかるか?」


「流行らないから、ですね」


「ご名答」

 カナエはいった。 


 運転手はリアクションに困っていることが明白だったが、スルーした。焦らすのも一つの手だ。沈黙に困ったのか、運転手はラジオのスイッチを入れた。ジャズが流れた。それもシダーウォルトン。これがリクエスト曲だったら、コアなファンだな、とカナエは舌打ちをした。


「この曲をご存知で」


「曲は知らない。演奏者は脳裏をよぎるわね。シダーウォルトン。テクニカルを押し隠す演奏者ね」


「美人なのにツボをよく抑えている。もちろんリクエストした人もですが。まあ、ジャズがお金になりませんからね」


「お金にならない、じゃなくて、理解できないんでしょ。リスナーが」


「手厳しい」


「でも、シダーウォルトンは知性的な演奏をするわね。音の主旋律と副旋律のタッチを共存させる。深い探究心を感じさせるわ」


「ジャズをおやりで」


 おやり、て。今時そんな言葉を使う人間がいたことにカナエは驚いた。ジャズのくだりに関してはこの辺でやめといた方がいいだろう。音楽を聴くとどうしても体が疼く。

『ああ、だめね。それじゃ。全体の統一感が欠けているわ。音像がぼやけている』


 やめて。


「はい?今なにかいいましたか」

 運転手は冷ややかな声を放った。

 カナエは目を瞑っていたらしい。


「もうそろそろね」

 カナエは自宅付近の見慣れた光景を横目にいった。


「随分、お疲れのようですね」


「ええ、仕事が立て込んでてね」


「気をつけてください。現実は厳しいことの連続ですから」


「気休めの言葉でも私に投げかけているつもり?」


「美人は笑ったほうがいいです。眉間に皺を寄せるのは頂けません。ですが、お代はちゃんといただきます。持論ですがね、気持ちのいい笑顔ほど魅力的なものはないです」


「笑顔はデリートしてしまったわ」


「復元してください」


「まあ、今の返しは、八十点ね」


「座布団もらえますかね」


「知らないわ」


「細心の注意を払うことに越したことはありません。何事も、ええ、何事も。知らなきゃ傷つくこともないことも時にはあります」


 運転手はブレーキを踏み、ドアが開いた。降りろ、ということらしい。奇妙なタクシー運転手との会話に関してはカナエは明日には忘れるだろう、ことは容易に想像がついた。カナエは代金を払い、運転手にこういった。


「今、あなたがいったことだけど」と効果的な間を一拍置き、「ご自分が間違っていると思ったことはない?」タクシーのドアを勢いよく閉めた。


 カナエは踵を返し、自宅へ向かい歩き出した。カナエは振り向いた。タクシーはすでにいなかった。走行音は無に近かった。タクシー運転手は怒ったのだろう。まあ、それはいい。


 お金に糸目をつけず購入した一軒家が見えてきた。庭師を雇い、庭の手入れは万全だ。枝木は適切にカットし、門扉は錆ないよう適度にコーティングされている。カナエは門を開け、玄関を開けた。 


 おや?


 カナエは首を傾げた。


 泥?


 さらに首を傾げた。


 潔癖症とまではいかないまでも、家に関しては綺麗に清潔に保っている。なのに、泥?電気、そう、電気をつければ全てが解決だ。電灯のスイッチを入れた。玄関がパッと明るくなった。カナエは目の前を見た。目を見開いた。


 そこには一糸纏わぬ女が怯えた目でカナエを見ていた。


 普通ならここで両者共に大声を出して取り乱すことだろう。不思議なことにどちらとも声を発しなかった。カナエに至っては口をぽっかりと開け、なにを言おうかと思案していた。


「どうしたの?」


 果たしてカナエの言葉は適切だったのか。銘々試さなければならない疑問の連鎖である。どうしたの?と問われて、明確な答えが返ってきたためしがない。


「自転車に乗ったことがある?」


 女は質問を質問で返したきた。悪い兆候だ。これはろくでもない出来事の前触れに過ぎない。


「あるわ」


「人生って恐ろしい。だから人生って自転車の十段ギアみたいなものよ。必ず使わないギアが一つはある」


 角砂糖四杯入れたような甘ったるい声だった。それでいて落ち着いているから、粘っこい。男は好きそうな声だが、女は苦手だろう。


「なかなか詩的ではあるけど、私には難しいわ。何が言いたいの?」


 女の容姿をカナエは上から下まで眺めた。悔しい事実だが、女は魅力的だった。清楚なストレートな黒髪。髪はなぜか濡れていた。まさかお風呂に入った?それよりも目がいく少しグレーよりの瞳。右頬にホクロがあった。乳房は形良く、ニットを切るだけで魅力的だろう。でも、この女どこかで見た記憶がある。


 女はゴクリと唾を飲み込み、「覚えてないの」とシロップを垂らした声でいった。

 それで私にどうしろって?カナエは頭が痛くなった。

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