③ゆうわく
エンジェルランドの暗黒街の大ボス、デビルンは、天使フィルターの発明で眠れない毎日を送っていた。
仲間や手下が、警察に捕まると、その翌日には、まるで別人になったように善人になって帰って来くるからだ。おかげで何千人もいた悪党仲間も、今では、わずか数人となってしまった。
「おれの組織は壊滅だ」
深夜の三時を過ぎていた。デビルンは激しく苛立ち、ベッドに腰掛け頭を抱えた。
その時、部屋の奥の暗がりから、
「あんた、それでも悪党なの」
と、不気味な女の声がした。
「だ、誰だ!」
デビルンは枕の下から拳銃を取り、部屋の奥に銃口を向けた。
「悪党なら、いちいち、びびらないのよ」
デビルンの前に、コウモリのような羽を持つ、黒猫が現れた。
「な、なんだ、のら猫か」
「ほんとにあんたは臆病ね」
黒猫があざわらう。
「なんだと!」
デビルンはカッとなり、引き金に力を入れた。すると銃口が飴のようにグニャリと曲がり、自分の方を向いた。
「ひ、ひぇー」
デビルンは驚いて、ひっくり返り、ゴキブリのように手足をばたつかせた。
「怯えすぎよ」
黒猫は音もなく移動し、呆れ顔でデビルンの顔を覗き込んだ。
「た、助けてくれ!」
デビルンは、不気味な黒猫に殺されると思い、震え上がった。
「あたしは、悪魔猫、ルシニャンよ」
「ルシニャン」
デビルンはカエルのように腹ばいになって、ルシニャンを見た。
「あんたの味方よ」
ルシニャンが、黒く長い髭をピンと伸ばし、デビルンを鋭い目で睨む。
「み、味方だと。猫のくせに」
馬鹿にするなと、デビルンが鼻でわらう。
「あんたを助けたいの」
ルシニャンは、四つ足をぴんと伸ばし、はいつくばたままのデビルンを見おろした。
「のら猫め! おれをなめるなよ!」
デビルンは立ち上がろうとしたが、金縛りにあって、目玉と口しか動かせない。しかも、見えない力で喉が締め付けられ、息が出来ないのだ。
「く、苦しい……」
「天使フィルターが邪魔なんでしょう」
ルシニャンがニタッとわらう。
「あ、あたりまえだ……」
「あたしと取り引きしない?」
ルシニャンは、箱座りして黒い鼻先をデビルンの目の前につきだした。
「と、取り引き……」
「あんたの真っ黒な魂が欲しいわ」
「た、魂をやれば、お、おれは死ぬ……」
「生きてるうちは取らないわよ」
「し、死んだらか……」
ルシニャンがゆっくりうなずく。
「あ、あんたはおれに何をくれる」
デビルンの息が少し楽になる。
「ありとあらゆる欲望を満たしてあげるわ」
「あらゆる欲だと!」
「あなたが望むもの全てよ」
「おお、それは嬉しい取り引きだな」
「あなたが欲深くなれば、不幸な人間が増えるわ」
「それがあんたに何の得になる」
「人間が嫉妬や怒りで、互いに傷つけ合えば、魂は光を失い悪に染まるのよ」
「悪趣味だな」
「あなたも、人の苦しみや悲しみを楽しんでるわ」
「たしかに、そうかもしれん」
「人間の魂が輝きを失えば、闇が広がり、闇が深まる。この世は悪魔の世界になるのよ」
「なるほど、おれも神や天使ってやつが、吐きけがするほど嫌いだ。愛だの光だの、聞いてるとむしづが走るぜ」
金縛りが解け、体が自由になったので、デビルンはゆっくり起き、胡座をかいた。
するとルシニャンも床にお尻をつき、向き合うように座った。
「趣味が合うようね」
ルシニャンがニタリと笑う。
「そうだな」
デビルンもニッと笑った。
「悪魔の契約をする気になったかしら」
ルシニャンが、邪悪な緑の目を輝かせる。
「もちろん」
デビルンは緑の目に呑み込まれた。
「なら誓いのキッスよ」
ルシニャンが鼻を突き出す。
「き、キッスだと」
デビルンは、四つんばいになって、黒猫に顔を近づける。するとルシニャンが鼻を突きだし、デビルンの鼻にギュッと押しつけた。
「契約成立よ」
ルシニャンが薄笑いする。
「簡単だな」
「悪魔はシンプルが好きなの」
「おれはこの国の全ての金が欲しい」
「金なんてそんなちっぽけなものより、あんたは、この国の王になることも出来るわ」
「王か、悪くないな」
デビルンが、思わずほくそ笑む。
「天使フィルターが邪魔なの」
「そうだ。気にいらねえ。ぶっ壊す」
「さっそく作戦会議よ」
ルシニャンは黒い羽をたたんで箱座りし、緑の目を鋭く光らせた。
それから深夜の薄暗い部屋で、悪魔猫と悪党が、ひそひそと、恐ろしい計画の打ち合わせを、はじめたのだった。
ルシニャンと悪魔の契約を交わしたデビルンは、数日後、さっそく悪党仲間の全員に、銀行強盗の計画を持ちかけ、実行に移した。
ところが、デビルンが、突然仲間を裏切り、警察に計画を通報したのだ。おかげで悪党仲間は全員つかまってしまった。
しかもデビルン自身も自首し、
「わたしは罪をつぐなう。天使フィルターをくぐり、世のため人のために働きます」
と心を入れ替える決意を表明したのだ。
こうしてデビルンと悪党たちは、あっけなくアンバー刑務所に送られ、天使フィルターをくぐった。
「もう、この王国で凶悪な犯罪は起こらない」
刑務所の所長は思わず呟いた。
「わたしがデビルンの天使度を測ろう」
所長は天使度メーターを握り、デビルンに向けると、すぐにメーターが振り切れた。
「おお、天使度が百パーセントだ」
所長は顔を上げ、デビルンの横顔をしみじみと見つめた。
「デビルン、いや、デビルンさん。これからは共に、世のため人のために頑張りましょう」
所長は親しげに、かつての暗黒街の大ボスに手を差し出した。
「ありがとうございます。がんばります」
デビルンは、頭を下げ、両手で所長の手を握り締めた。
世間を脅かす悪党が、全て善い人になった瞬間だった。
王様はお城のテラスから手を振り、
「もうエンジェルランドに悪党はいない。刑務所も必要ない。わが王国は天使のすむ、真の平和な国、真の愛の王国になったのだ」
と、自信に満ちた声で人々に宣言した。
すると国中の人々が「真の平和! 真の愛!」と熱狂し、王国の至る所で平和のお祭りやパレードが行われた。
その後、エンジェルランドの全ての刑務所が解体されると、、天使の公園として生まれ変わり、人々の憩いの場となった。しかも全ての公園に天使フィルターが置かれたので、多くの人々が、競って天使フィルターをくぐたのだった。
ハイマンはエジポン博士の命を受け、天使フィルターのメンテナンスに行った。行く先は、アンバー刑務所跡地の公園だ。この公園の天使フィルターは、その後、エンジェルランド全土に設置された、天使フィルターのメイン施設で、この施設の天使フィルターが、全国のフィルターのエネルギーをコントロールしていた。
公園に着いたハイマンは、天使フィルターの一号機に向かって歩いた。
今はもう、要塞のような建物や、受刑者の脱走を阻む分厚く長い壁、レザービームを流した高いフェンスはなく、見晴らしのよい高台に、公園を埋め尽くすほどのマドンナ・リリーが美しく咲き乱れていた。
ハイマンの目に、天使フィルターの美しい、ピンク・ゴールドのハート型リングが見えてきた。
「全てはここからはじまったのだ」
ハイマンは天使フィルターの前に立ち、リングを見上げた。
「これは、おれがいなけりゃ出来なかった」
ハイマンは大きくため息をつき、天使フィルターのリモコンを握りしめた。
その時、急に風が吹き辺りが真っ暗になった。そして、心に絡みつくような不気味な声がした。
「そうよ、あんたは不当に評価されてるわ」
「だ、だれだ!」
ハイマンは周囲を見渡したが、だれもいない。ところがいつ来たのか、緑の目をした黒猫が足下にいた。
「薄気味悪い猫だ」
「レディーに失礼ね」
「ね、猫がしゃべった」
ハイマンは思わず黒猫の前から退いた。
「猫、一匹に、びびらないで」
ルシニャンがあざわらう。
「な、なんだと」
「あたしは悪魔猫、ルシニャン」
「悪魔猫だと」
「あんたの味方よ」
「化け猫め」
「あなたはエジポンより天才よ」
「悪魔め! 騙されんぞ」
「そうヒステリックにならないで」
ルシニャンが、フゥ、とため息をつく。すると、ハイマンの体がふわりと浮く。
「や、やめろ!」
気がつくと、ハイマンはマドンナリリーの花壇の上に仰向けに倒れていた。
「か、体が」
ハイマンは金縛りにされ、目と口しか動かせない。
「ゆっくり話しましょう」
ルシニャンは、そういいながら、ハイマンのお腹に、ドスッ、と飛び乗った。
「おえっ」
ハイマンが身もだえる。
「少しは自分の欲に正直になったかしら」
「……」
ハイマンは目だけをくりくり動かした。
「あたしと手を組めば、あんたは、地位も名声も大金も手に入れることが出来るわ」
「なぜおれの欲を叶えようとする?」
「あたしは天使が嫌いなのよ」
「おれにどうしろと」
「ようやく素直になったわね」
「ああ、そうさ、有名になりたいさ。おれが世界一の天才だと世界に認めさせたい。エジポンのプライドや名声を叩きつぶしたい」
「そうこなくっちゃ」
ルシニャンがハイマンから飛び降りる。
「あっ」
金縛りが解け、体が自由になる。
ハイマンは、上体を起こし、二、三度大きく深呼吸した。
「これから天使フィルターのバージョンアップをするでしょ」
「なぜ知ってる?」
「あたしは、何でもお見通しよ」
ルシニャンは地面にお尻をつけて座り、ハイマンをじっと見た。
「確かにバージョンアップだ。このメインフィルターをバージョンアップすれば、全国のフィルターも新バージョンに自動更新される」
「天使フィルターがバージョンアップすれば、フィルターで天使の魂になった人間の天使度も、連動してアップするわよね」
「そのとおりだ」
「なら、バージョンアップせずに、バージョン・ダウンしてほしいわ。それも極限までね」
「な、何だと。人間の魂が光を失うぞ!」
「それでいいのよ」
「なに」
「魂が光を失えば、この世はどうなるかしら?」
「ど、どうって」
「この世は闇になるのよ」
「闇になる」
「察しが悪いのね」
「……」
「魂が輝きを失えば、人間は限りなく利己的になり、欲深く、冷酷で残忍になるわ」
「人間を悪魔にする気か」
「あなたは、コントローラーのスイッチを入れるだけでいいの。それだけで、あんたはこの国の王でも、世界の王にでもなれるわ」
「だがルシニャン、おまえに何の得がある」
「あたしは人間が、心も魂も醜くなって、駄目になるのを見たい。神の創造物を壊したいのよ」
ルシニャンは薄笑いし、話し続けた。
「人間は天使になど成れない。あんたは、おろかな人間どもに、それを教えてやるの。特におごり高ぶったエジポンにね」
「条件は何だ」
「あなたの真っ黒く染まった魂が欲しい。あんたは死ぬ瞬間まで、欲望の限りをつくして生きるの。大金、地位、名誉、欲しい物は全て満たしてあげるわ」
「欲望の限りを尽くせば極上の黒い魂が出来上がるというわけか」
「素敵でしょ」
「おれに天使の信仰を捨てろというのか」
「神も天使も信じてないくせに、クフッ」
ルシニャンの目が怪しく笑う。
「死ねばおれは地獄に落ちる」
「地獄は嫌?」
「あたりまえだ」
「じゃ、いいことを教えてあげるわ」
「いいこと」
「約束を守れば、あなたの魂は天使の裁きを受けなくてすむのよ」
「どういう意味だ」
「あなたの魂が、あたしのものになったとき、悪魔の魂になるの」
「悪魔の魂だと」
「悪魔の魂になれば、あなたは天使の裁きを受けることなく、悪魔の国で、死んでも欲望の限りを尽くすことが出来るのよ。すてきでしょう」
「悪魔も悪くないな」
「悪魔の国は、天国より楽しいわ」
「わかった。取り引きしよう」
ハイマンは少しもためらわなかった。
「こっちへ顔を近づけて」
ルシニャンが鼻先で来いと合図する。
ハイマンは、四つんばいになって鼻先をルシニャンの顔に近づけた。ルシニャンの湿った鼻先が、ハイマンの鼻先に、グニュ、と押しつけられる。悪魔の生臭い口臭が、口の中から入り、彼の肺を満たした。
「へ、こ、これだけか」
「悪魔と取り引きするのは簡単でしょ」
「ああ」
「さっそく仕事に取りかかりなさい。天使度をマックス、バージョンダウンするのよ」
「わかった」
ハイマンは薄ら笑いし、天使度が極限までダウンするよう、天使フィルターのプログラムを変更して、スイッチを入れた。
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