【厄日】

「まったく、ラズベリーアイスは食べ損なうし……今日は、とんだ厄日だわ」


 頬の傷跡を手の甲でぬぐいながら、『淫魔』はつぶやく。無数のワイヤー鞭のごとき剛毛を引きずりながら、漆黒の獣がゆっくりと近づいてくる。


「決めた、本気を出す。悪く思わないことだわ」


 宣告するように『淫魔』は短く言い捨てる。刹那、『淫魔』は身を仰け反らせる。華奢な肢体の背後に、ばちばち、と音を立てつつ、ノイズと電光が生じる。


 無貌の怪物が、気圧されたように、歩を止める。


 一瞬の後、『淫魔』の背には、コウモリのごとき漆黒の翼と、ヘビのように身をくねらせる尻尾が現れていた。


 双翼は重力から身を解き放って、空を舞い、尾は体躯のバランスをとり、ときに第三の手としての役割を果たす──そんな機能は『淫魔』にとっておまけに過ぎない。


 漆黒の翼も、闇色の尻尾も、極めて強力な魔力放出器官であることが本分だ。


 実際、『淫魔』の身から発せられる『圧』は先ほどまでの数倍に強まっている。漆黒の獣も、思わずたじろぐかのような仕草を見せる。


 魔性の姿を現した『淫魔』は、無貌の怪物が持つ蒼黒の瞳を一瞥する。


 漆黒の獣の表層意識には、攻撃一辺倒だった先刻までと異なり、様子見、後退、防御といったネガティブな選択肢が浮かび上がっている。


「後悔するには、もう……遅いのだわッ!」


『淫魔』は、己自身の最奥から、思い切り魔力を汲みあげる。双翼が円を描くように広がり、いっそう深い闇をたたえる。『淫魔』の身体が、わずかに宙に浮く。


 対峙する獣が、一歩引く。それでも、『淫魔』に絡めとられた視線をはずせない。


「グリン──ッ!!」


『淫魔』の双眸が、無貌の怪物の瞳を捉えたまま、黄金色の妖しい輝きを放つ。漆黒の獣は、びくん、と体を硬直させると、そのまま力なく倒れこむ。


 怪物は己の無貌を影のごとき指でかきむしり、しばらく、床のうえで小刻みに全身をけいれんさせていたが、やがて動かなくなる。


「ふうぅぅ……」


『淫魔』は、深く呼気を吐き出した。黒翼のサイズは縮み、瞳に宿った黄金の輝きは消え、虹彩はもとの緑色へと戻る。


「……精神をずたずたに引き裂く、強毒性の幻覚を見せてやったのだわ」


 若干ふらつきながら、『淫魔』は、倒れ伏す獣に対して言い捨てる。


 相手の精神に向かって、ただ乱暴に、強引な思念を叩きこむ。表層意識から深層意識、五感に記憶領域、自律神経に至るまで、ぐちゃぐちゃに踏みつぶす。


 並の人間ならば即死し、ドラゴンであっても正気を保てず発狂するほどの、暴力的な精神の蹂躙──『淫魔』にとっての、切り札だ。


 当然、これだけの能力を操るためには、それ相応の消耗をともなう。『淫魔』はめまいを覚え、額に手を当て、その場で片ひざをつく。


「ああ、もう……いい『食事』になると思ったのに、だいなしだわ。それに……死体処理まで、しなくちゃいけないなんて、今日は本当に──」


 必殺を確信して、『淫魔』は床に転がる無貌の怪物を見やる。


 違和感を覚える。なにかが、おかしい。『淫魔』は、ふらつきを抑えつつ、しとめたはずの獣を凝視する。


 わずかに、指が動いた。心臓が拍動しているのが、わかる。かすかに、全身の体毛がざわついている。死んでいない。まだ、生きている。


「──厄日なのだわ」


 心底うんざりした様子で、『淫魔』がつぶやく。

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