【敵意】

「うぐぅ……ッ!」


 うめきながらも『淫魔』は、着地してすぐにひざ立ちになる。とっさのことではあったが、空中で猫のように回転し、衝撃を逃がすことに成功した。


 攻撃の正体は、体毛だ。伸張した体毛の束を鞭のように叩きつけられた。無数の被毛は、一本一本がワイヤー並の強度を持っている。


『淫魔』は、若干ふらつき、軽くせきこみながらも、すきを見せぬよう立ち上がる。


「……レディに手をあげるなんて、感心しないのだわ」


 漆黒の獣はベッドのうえから立ち上がり、ひざを曲げて跳躍する。身軽に床へと着地すると、狩猟に望む捕食者のような前傾姿勢となる。


 その有り様は完全に獣であり、『淫魔』の言葉を気にとめる様子もない。


「交渉の余地は、ないってことかしら?」


『淫魔』の問いかけに応える代わりに、無貌の怪物は大きく身震いする。長く伸びた体毛がワイヤー鞭のように振るわれ、『淫魔』に向かって襲いかかる。


「……ちッ!」


 身をよじり、わずかに体幹を傾けて、黒毛の一撃を『淫魔』は紙一重で回避する。無駄のない、効率的な攻撃に『淫魔』は思わず感心する。


 家主の背後で、大きな音が響く。『淫魔』を狙った体毛鞭が、壁沿いに設置した家具に命中し、破壊する。


「完全に……殺す気まんまんなのだわ」


 唖然とする『淫魔』を意に介する様子も見せず、漆黒の獣はその場で素早く身を、右に左に回転させる。


 束となった幾本もの剛毛が、怪物の頭上で振り回されて、ぶんぶんと音を立てる。


 闇色の旋風のように体毛群が風を切り、『淫魔』を狙う。対する『淫魔』は、被毛の鞭ごしに無貌の怪物をにらみ返し、その瞳を一瞥する。


『淫魔』は、人間をはじめとする知的生命体の精神を『読む』ことができる。


 深層意識にまで潜りこむには、相応の時間と準備が必要だが、表層意識のちょっとした思いつき──たとえば、攻撃の方向などは、視線を交わすだけで読みとれる。


 蒼黒の眼球の網膜から、『淫魔』は敵意の流れを識別する。


「甘いのだわッ!」


 無数に飛来する剛毛の群を、身軽にステップを踏み、蝶の羽のようにフリル付きのドレスをはためかせながら、『淫魔』は寸でのところでかわしていく。


『淫魔』が体毛鞭の一撃を回避するたび、代わりに、部屋の壁と床に大きな傷が穿たれ、自慢のアンティーク家具が次々とがれきに変わっていく。


「痛いのも、殺されるのも、勘弁だけど……部屋をめちゃくちゃにされるのも、困りものだわッ!」


 背後を仰ぎ見ながら、『淫魔』は叫ぶ。ふたたび前方を向いたとき、視界には自分へ向かって一直線に迫り来る、漆黒獣の姿が映る。


「グヌゥウラアアァァァ──ッ!!」


 体躯を沈め、咆哮し、肩から突進してくる怪物に対して、『淫魔』は腕を伸ばし、異形の背中に両手を突く。


 そのまま、手のひらを支点として新体操選手のように一回転する。『淫魔』は、漆黒の獣の背を飛び越えて、その後方へと軽やかに着地する。


「ダンスゲームは、嫌いじゃないけど……私、基本的にインドア派だわ」


 目標を見失った怪物は、本棚を粉砕しつつ、頭から壁につっこみ、巨大なひび割れを作る。『淫魔』は、広がる破壊行動の被害を苦々しく見やる。


 荒く息をつく『淫魔』は、がれきから頭を引き抜き、ゆっくりと自分のほうへと向き直る無貌の怪物を、あらためて仔細に観察する。


 早くも疲労を見せ始めた『淫魔』に対して、漆黒の獣にみじんもくたびれた様子はない。一見、力任せに暴れ回っているように見えて、その攻撃は正確で無駄がない。


 全身に巻きつき、おおっているのは、光を反射しない漆黒の体毛。ワイヤー並の強度を持ち、身を守ると同時に、武器にもなる。


 剛毛は、身体はおろか、指先から頭部までも保護し、表情すら見て取れない。唯一露出していて、光を反射しているのは、蒼黒の瞳のみ。


「……瞳、ね」


『淫魔』は、自分に向き直りつつある無貌の怪物の眼球をのぞきこむ。獣の表層意識を、目前の相手を蹂躙するための、いくつもの攻撃パターンが去来していく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る