【怖気】

「な……なんなのだわッ!?」


 危機感を覚えた『淫魔』は、反射的に腰を引く。仰向けに横たわっていた青年は、小さくうめきながら背筋を仰け反らせる。


 眼下にぽっかりと開いたブラックホールのような双眸から、涙のような液体があふれ出す。まぶたの縁からこぼれ始めたのは、黒いタール状の液体だった。


『淫魔』自身、セフィロト社のエージェントを初めとした敵対者からは「女悪魔」呼ばわりされる存在だ。ドラゴンなどの本物の魔物と対峙したことも、少なくない。


 そんな『淫魔』が、いま、本能的な危機感を覚えて、背筋が凍りつくような感触を味わっている。見た目はただの人間に、恐怖の予感を突きつけられている。


「私も、他の人と会うときはあんまり怖がらせないように、もう少し優しくしてあげたほうが良さそうなのだわ」


『淫魔』は、ひきつった笑みを浮かべる。本能の警鐘は、すぐに実存する現象となって姿を示す。まぶたに続いて、青年の口が大きく開く。


「ぐヌぅ、ああアアアァァァァァ──ッ!!」


 青年ののどから、地獄の底より響くような慟哭が響きわたる。


「……くッ!?」


『淫魔』は、ベッドのうえから飛び退こうとする。できない。ワイヤーのような、触手のような紐状の何かが、幾本も四肢に引っかかっている。


 視線を落とすと、紐状の何かは青年の身体から伸びていた。全身の肌から黒い体毛が、独立した生命体のようにうごめきながら、急速に伸張していく。


『淫魔』は、逃れようともがくが、茨のなかに放りこまれたように体毛が絡みつき、思うように身動きをとれない。


 白いシーツを真黒く塗りつぶすように伸びきった被毛は、今度は、青年の体躯に巻きつくように動き始める。


 青年の全身が、見る間に黒毛におおわれていく。影色の体毛は、隙間なく肌をおおい隠し、眼球を除いた顔の造形すらも包みこみ、のっぺらぼうの影法師と化す。


 気がつけばそこには、人間の姿だった男が変容した、漆黒の獣としか形容できない無貌の怪物の姿があった。


「……男はオオカミ、ってやつ?」


『淫魔』は額に伝う冷や汗を感じながら、軽口をたたく。無貌の怪物が、どんな表情を浮かべているのかは判然としない。


「カ、カカ……カエ、セ!」


 漆黒の獣は、口元をおおう体毛を自ら引きちぎりながら、ひどく難儀そうにのどを開くと、絞り出すような声音を発する。


 同時に獣は、『淫魔』の華奢な首を狙って両腕を伸ばす。『淫魔』はとっさに身をよじって、怪物の喉輪を回避する。


「かえせ、ってなんのことだわ!? 私、なにもとっていないし!!」


 細腕に巻きついた体毛を引きはがしながら、『淫魔』は必死に反論する。蒼黒の瞳がぎらりと光り、敵意に満ちた視線が『淫魔』を射抜く。


「いや、正確には、ちょっと精をいただこうとは思ってたけど……助けてあげたのだから、そのお駄賃みたいなものだわ! そもそも、未遂だわ!!」


 どうにか双腕の自由を取り戻した『淫魔』は、両足の体毛を引きはがしにかかる。それよりも早く、漆黒の獣は大きく身を振る。


「──ぶゲはあッ!?」


『淫魔』は、側面から強い衝撃を喰らう。両脚に絡みついていた黒毛は引きちぎれ、身体は中空に吹き飛ばされた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る