【急転】
「せめて、インターバルがほしいんだけど……」
独りごちる『淫魔』を意に介する様子もなく、漆黒の獣はゆっくりと立ち上がる。
黒い体毛におおわれ、表情もうかがえない無貌ながら、蒼黒の瞳には激しい怒りが宿っていると見て取れる。
「──グヌウラアァァ!!」
漆黒の獣が、咆哮する。剛毛をまとった四肢には、すでに元通りの筋力がみなぎっている。無貌の怪物は、四足歩行の体勢で『淫魔』に向き合う。
「……どうしろって言うのだわ、これ!?」
ひざを突いた状態から、『淫魔』はよろよろと立ち上がる。一撃必殺のつもりで行使した、幻覚攻撃の反動が激しい。二発めのことなど、初めから考慮の外だ。
「ヌゥラアァアァァ──ッ!」
憤怒に身を任せた漆黒の獣が、一直線に『淫魔』に向かって突撃してくる。
「この、ケダモノめ……ッ!」
持てる力を振り絞り、『淫魔』は背中の双翼を広げる。無貌の怪物が間合いに踏みこむ瞬間、横っ飛びし、床すれすれの低空飛行でどうにか突進を回避する。
食器棚を中身のワイングラスごと粉砕しながら、憤怒の獣は壁に突っこむ。衝突箇所はおろか、地震に見舞われたかのように部屋の空間全体が鳴動する。
「このまま暴れ続けられたら、部屋自体が本気で解体の危機だわ……」
滑空回避から着地した『淫魔』は、なかばあきれ果てたようにため息をつく。
無貌の怪物は、大きくひび割れた壁に突き刺さった己の頭を引き抜く。距離をとる『淫魔』に対して向き直り、ひゅんひゅん、と剛毛鞭が風を切る。
「……というか、その前に、自分の命の心配をしなくちゃだわ」
『淫魔』は、ふたたび双翼を大きく広げる。無論、見せかけだ。先ほどと同じレベルの幻覚攻撃を行使しようものなら、自身が消耗で命の危機に陥りかねない。
扇のように開かれた黒翼の裏側、無貌の怪物から死角となっている場所に、『淫魔』は後ろ手をかざす。
疲労で、必要な集中を維持できない。やむを得ず、
「ウラアァァ……」
漆黒の獣が、憤怒の吐息をこぼす。猛牛のごとく後ろ脚で何度も床を蹴り、突進のエネルギーを蓄えている。
「いつでも……来るといいのだわッ!」
『淫魔』は、なけなしの気力を振り絞り、無貌の怪物を挑発する。背筋を、冷たい汗が伝う。漆黒の獣は、頭部を前面につきだして、弾丸のごとく走り出す。
存在そのものが高エネルギー質量体と化した獣が、徐々に速度を増しながら、『淫魔』に向かって迫り来る。床を激しく踏み荒らす音が、部屋に反響する。
びりびりと響く致命的な身の危険を予感しながら『淫魔』は、それでも、ぎりぎりまで相手を引き寄せようと踏みとどまる。
(幻覚攻撃を、警戒してくれているのだわ──)
怪物は、先ほどと同様の精神干渉が来ることを想定して、突進攻撃を選択した。意識が途絶しても、そのままの勢いで『淫魔』を踏みつぶせる……という算段だろう。
そして、漆黒の獣が選んだ行動もまた、『淫魔』の想定のうちだった。
「──いまだわ!!」
目と鼻の先まで無貌の怪物を踏みこませた『淫魔』は、闘牛士のごとく双翼をはためかせて、相手の視界をくらませる。
一瞬だけ生じたすきをついて、『淫魔』は真横に跳躍し、紙一重で突進をかわす。
「あぐふ……ッ!」
怪物の体躯の周囲ではためく剛毛が、『淫魔』の白い柔肌と紫のドレスを引き裂く。床のうえをごろごろと転がりながら、『淫魔』はひきつった笑みを浮かべる。
漆黒の怪物が、蒼黒の瞳を見開く。翼によっておおい隠されていた『淫魔』の背後には、ぽっかりと口を開いた『扉』が現出している。
高速で直進する弾体と化した無貌の怪物は、急停止することかなわず、『扉』を突き破り、その向こうに広がる虚無空間へと落下する。
「グヌゥウラアアァァァ──……ッ!!」
呪詛と怒号の咆哮が響く。獣の叫び声が、次第に遠くなり、消えていく。
「……やった」
ぐったりと疲弊した『淫魔』は、床のうえで大の字に横たわる。豊満な乳房が、荒い呼吸によって上下に揺れる。
『淫魔』が作り出す『扉』は、異なる
無貌の怪物は、ここではない別世界に投棄された。『淫魔』自身が、ふたたび招き入れでもしない限り、この部屋に戻ってくることはできない。
「ん……?」
安堵と達成感とともに四肢を弛緩させていた『淫魔』は、違和感を知覚する。わずかに右足を、引っ張られるような感覚がある。
脚を牽引するような力は、次第に強くなる。『淫魔』は、上半身を起こし、自分の右足首を見やる。
黒い糸のようなものが、くるぶしの少し上のところに巻き付いている。極細のワイヤーのようなものは、ピンと張って、『扉』のほうへと伸びている。
「まさかッ!?」
とっさに『淫魔』は、『扉』を閉じようと試みる。それよりも早く、黒毛の引きずる力は強くなる。ワイヤー並の強度を持ち、簡単にはちぎれない。
「はぷひゃあ──ッ!!」
床のうえを転がるように『淫魔』は、『扉』の向こうへと引きずられていく。漆黒の獣の体毛に捕らえられた『淫魔』は、自らも虚無空間へと呑みこまれていった。
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