背中に指で想いを書く

 台所で麦茶を飲んでいると、お風呂の方からシャワーの音が聞こえた。

 月海先輩がそこにいるのかと思うとドキドキする。


 ……音ばかり聞いていると変態みたいだから移動しよう。


 ぼくは座敷に入って、先輩が使う布団を探した。

 新しめのマットレスがあったのでこれにしよう。うちの母さんは普段おおざっぱな性格のわりに寝具にはとても細かい。合わなくて眠れない、と言ってけっこう買い換えてきた。その分がこの座敷に重なっているのだ。


 持ち上げるとけっこう重かった。


 ……確かに、先輩に任せた方が安全そうだ。


 何せぼくは非力なのだ。バランスを崩して階段から転がり落ちたら大変である。


 部屋の入り口まで引っ張って寄せておく。これで運びやすいだろう。


     †     †


「景国くん、戸を開けてもらってもいい?」

「あ、はーい」


 部屋で携帯をいじっていると先輩の声がした。足音からしてマットレスを抱えている。


 ドアを開けると壁が目の前にあった。……というのは大げさだが、先輩がマットレスを部屋に入れた。


「出しておいてくれたのね。すぐわかったわ」

「…………」

「景国くん?」

「な、なんでもないです」


 ぼくは視線を逸らした。


 ポニーテールを下ろした先輩が妙に色っぽく見えたのだ。グレーの長袖シャツと薄そうな生地のロングパンツ。

 シャツは首元がゆったりしていて鎖骨が見える。ロングパンツにはウエストリボンがついていておしゃれな雰囲気だ。


 ぼくはいつものパジャマなのだが、差がひどいような……。


「へ、変じゃない?」


 ぼくは視線を戻す。月海先輩は胸の前で両手をすりすりしていた。


「あ、新しくしたばっかりなんだけど……」

「全然変じゃないです。大人っぽくて、えっと、綺麗です!」


 語彙力なさすぎだろう、ぼく……。


「よかった。似合ってなかったらどうしようって、実はちょっと不安だったの」

「先輩の雰囲気にぴったりですよ」

「あ、ありがとね」


 あははは、とぼくたちは笑った。すごく他人行儀な笑い方だった。


 ローテーブルをどかし、先輩にマットレスを敷いてもらう。ぼくもベッドから床に布団を移した。収まりきらなくて隅を折り曲げたが、なんとか幅は取れた。


 シーツをかぶせると、先輩が早速寝転んだ。


「景国くん、来る?」

「い、いきなりなんてこと言うんですか!」


 ぼくは慌てて自分の布団に座った。


「ま、まだそこまではできないですよ。だから布団も二つにしてもらったのであって……」

「冗談よ。私は景国くんのそういうところ、信じてるから」


 ああもう、心臓に悪いなあ。


「でも景国くん、してみたいことがあるんだけど」

「な、なんですか」

「電気消して、横になって」

「ま、まさか……」

「たぶん、想像してるのとは違うわよ」

「は、はは……」


 渇いた笑いしか出なかった。


 ぼくは電気を消して、言われた通り自分の布団に横になる。

 月明かりが強かった。

 窓枠の影が部屋に落ちてくるくらい、今夜は煌々と地上を照らしている。


 部屋を暗くしても、月海先輩の顔がよく見えた。髪の毛が顔にかかって、より色気が強くなっている。


「反対を向いて」

「こうですか?」


 ベッドの方を向いた。


 ――ゾクッとした感触が走る。


 先輩がぼくの背中を指でなぞっているのだ。


「せ、先輩、くすぐったいですよ……」

「じっとしてて」


 指の動きは止まらない。

 そのうち、先輩が背中に文字を書いているのだとわかった。


「さあ、なんて書いたか当ててみて」

「さ、最初の方が全然わからなかったんですけど……」

「じゃあもう一回書くね」


 ゾクゾクッ……。


 やばい。これはやばすぎる。文字を考えるどころじゃない。先輩のやけにゆっくりな指づかいに体が熱くなってしまう。


「ヒントは四文字よ」


 一文字目はたぶん「か」だった。二文字目はよくわからなかったが、ちょんちょんと二回つつかれたので濁点がついている。


 それって……。


「ぼくの名前ですか?」

「正解。二問目いくわよ」


 まだやるのか……。


 なぞられるたびに背中がゾクゾクする。部屋があまりに静かだから、先輩の吐息が聞こえてくる。


 理性よ、持ちこたえてくれ。

 ここで本能に呑まれたくはないんだ。


 そんなんだからお前は、と言われたってかまわない。もしこの先に進むのであれば、もっと自分が成長してからにしたいんだ。今はきっと、情けない思いをするだけだ。間違いなく。


「今度は簡単かな?」


 ぼくの思考を遮るように、先輩がささやく。


「えっと……「好き」ですか?」

「あ、また正解。景国くん、なかなかやるわね」


 先輩の声はどこか無邪気に聞こえた。


「私の気持ちは変わらないよ。景国くんのこと、大好き」


 背中越しに、優しい声が届く。

 ぼくだって同じ気持ちだ。どうせなら、この想いは同じ方法で伝えたい。


「先輩、ぼくも背中に文字を書きたいです」

「……言うと思った」


 衣ずれの音がした。

 ぼくが反転すると、先輩はもう背中を向けていた。


「は、始める前に声かけてね」

「わかりました」


 先輩も緊張しているらしい。

 ぼくは近づいて、そっと人差し指を伸ばす。


「い、いきますよ」

「ふあっ」


 触れた瞬間、先輩が声を上げた。


「ご、ごめん。――いいよ、続けて」


 ぼくは先輩の背中を指でなぞる。シャツ越しに体温が伝わってくる。お風呂から上がったばかりだから、まだ熱い。


「うぅ……」


 先輩がもぞもぞ動いた。


「お、思ったよりだいぶくすぐったいわね」

「なんか、ゾクゾクしますよね」

「そ、そういうこと言わなくていいから」

「――はい、終わりました」

「……月、かな」

「当たりです」


 画数が少ないから簡単だったか。


「……ねえ」

「はい?」

「そのまま私のフルネームやるつもりじゃないわよね」

「…………」

「やる気だったのね……」

「せ、先輩、先に答えちゃうなんてずるいですよ」

「だって、流れ的にそのくらいわかるじゃない。それに私は二問で終わらせたわよ。景国くんもやるならあと一回だけ」

「ええー」

「こういうのは平等に。ね?」

「……わかりました」


 ぼくは何を書くか、よく考えた。

 ――好き。

 何度も交わしてきた言葉。ぼくも使いたいけど、先輩にもう書かれてしまった。


「よし」

「決めた?」

「はい。いきます」

「ひゃっ」


 また先輩が驚く。

 ぼくはそっと、強くならないように文字を書いた。


「どうですか?」

「なんだか画数が多かったような……」


 うーん、と先輩が考え込む。難しかっただろうか。


「わからないわ……。降参します」

「じゃあ、答えを言いますね」


 ぼくは先輩のマットレスに顔だけ乗せた。


「愛、です」

「景国くん……?」


「愛してます、光先輩」


 しばらく返事はなかった。

 これはぼくの正直な気持ちだった。だから、恥ずかしがらずにはっきり言った。


 ……重かったか?


 焦りが出てきた頃、先輩がくるりとこちらを向いた。

 月明かりに映し出された先輩の顔は、見たことがないほど穏やかだった。


「好きじゃ、足りなくなったのね」

「そうです」

「……景国くんに先に言われちゃうなんてね。私が言うつもりだったのに」

「抑えきれなかったんです」

「そっか。でも、これでよかったのかも」


 先輩は仰向けになった。


「ああ……今、すごく幸せ」


 本当に幸せそうな言い方だった。


「景国くん」


 視線が重なる。先輩が微笑んだ。


「私も、同じ言葉を返したい。――貴方のことを、愛しています」


     †     †


 ……少しずつ意識が覚醒していく。


 ゆうべは、あのまま他愛もない話をしているうちに眠ってしまった。せっかくの時間だったのだからトランプとかで遊びたかったけど……。


 まぶたの裏が明るい。もう朝か。


 ……体が動かないな……。


 目を開いた。


 生白い鎖骨がすぐそこにあった。


「……えっ?」


 ぼくは、眠っている月海先輩に抱きしめられているのだった。下にあるのは自分の布団だ。先輩は夜中のうちに、こちら側に動いてきたのか。


 顔のすぐ下に、かすかに上下する胸が……。

 離れたいけど、先輩の腕がぼくの背中を包んでいるので動けない。


 た、大変だ。

 ドキドキが強すぎて意識がどこかにいってしまいそうだ。


「せ、先輩、朝ですよ」


 ゆさゆさ。


「先輩、起きてください」

「ん……かげくにくん、すき……」


 ぼくは動きを止めた。

 滑舌の悪い言葉がスッと体に入ってきた。


 ……寝言でも好きって言ってくれるのか……。


 悪くない。

 というか最高だよ。

 こんなに嬉しい朝はそうそうないぞ。


 先輩は朝に強いんだし、そのうち起きるだろう。

 どうせ動けないんだ。

 もう少し、このままでいようか。あとちょっとだけね。


 ぼくは再び目を閉じる。

 先輩の吐息と鼓動に、自分の呼吸を合わせて。

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