第5話 崩壊

※注意。第五話にもとんでもなく生々しい描写が描かれております。痛いです。苦手な方はご注意くださいませ。


 この人形と逢瀬を重ねるうちに夜は明ける。そしてHは眠りに着く。幾度となく続くその様な昼夜の逆転した生活が、彼の日常となりつつありました。家の者が朝起きて来ても、Hは部屋へ運ばれた朝食も食べずに寝ておりますので、段々と皆彼の体調が心配になってきておりました。

 しかし斯様な事はHが知る訳も無く、毎夜のように人形と肌を重ねておりました。

  何度も肌を重ねるうちに、冷たかった筈の人形の體が何処か火照っている様に感じられ、肌も柔らかみを感じる様に迄なっておりました。勿論それは誠にそうなっていると云う訳ではなく、全てはHの妄想なのでございます。

 ですが、確実にこの人形はHにとって生身の恋人に見えておりました。既にHの妄想癖は最大限にまで広がっていたのでございます。

「おれはもう君が居なければ生きては行けないのだよ。アゝ。君が愛おしい」

 そう人形の耳元で囁きましても、返事など返ってくる訳ではございませんが、Hの耳には確実に「私もアナタ様に愛されて、嬉しゅうございます」などと聞こえて居るのでございます。

 エエ。既におっ察しかもしれませぬが、既に彼は精神を病に陥っておるのでございます。風呂にも入ることなく、一昼夜この人形と共に生きておるのでございます。そんな生活が続いておりますと體が汚いのは当然の事でございますが、性の対象となり愛撫し、犯し、舐めまわされた人形は、手垢やら油やらがこびりついてひどく汚れておるのですが、返ってそれが一層汗ばんで見えるのでございます。

 最早汚いだの不潔だの云う様なものではなく、それが寧ろ艶かしく、より妖艶に見えるのでございます。その姿がHの性欲の炎に油を注ぎ、人形はより過激に弄ばれて行くのでございます。

 既にHの精神や理性はこの人形に吸い込まれてしまったのでございました。

 これが、この姿が、Hが頭の片隅で抱いていた理想の姿なのでございました。到底人では叶えられぬ欲望を満たした姿。これが何よりのHのゆがみ切った美学なのでございます。

 Hは誰にも姿を見せず、訪ねてくる見合い客にも顔を出さず、ただ籠りっぱなしの生活で父も母も痺れを切らしておりましたが、二人とも子供には滅法優しかったものでございますから何も云う様な事はできませんでした。

 そんなある晩の事でございます。主人の趣味は日本刀の収集でございまして、定期的に刀の手入れをしておるのでございますが、保管してある物置から愛蔵の日本刀を一振り、書斎へ持ち帰ろうとした帰り、Hの部屋から光が漏れているのに主人は気付いてしまったのでございます。

 既に夜も更けておりましたから不自然に思い、主人はとうとうHの部屋を覗いてしまったのでございます。

 その時主人の眼に映ったもの。それは皺だらけの布団の上で只管肌を重ね合わせる性欲の化け物となったHと、體を擦りつけられ、舐めまわされるあの忌々しき人形の姿でございました。

 アア、何と云う事でございましょう。理性の飛んだ、歪み切った道を歩んでいるその姿を、Hは見られてしまったのでございます。

 それを見た父は何と思うのでございましょう。アア、それが誠の女であればどれほど良かったのでございましょう。皮肉にも主人の目には何かしらのけだもののように見えていたのでございました。

 何かに憑りつかれた様に行為を続けるHと、力の抜けたように横を向く人形。その人形の顔は明らかに主人の方を向いているようでございました。

「ばっ…化け物がっ!」

 主人はガラッと襖を開きますと、たちまち愛蔵の日本刀を抜き、Hの體を切りつけました。その太刀筋はHの左首を切り裂き、人形の喉へ刺さって留まったようでございました。

 Hの喉からは血が噴き出し、人形の白地の着物を真っ赤に染めました。その最中、人形の眼はジッと主人の姿を見据えており、その潤んだ瞳にはその生々しき殺害の現場がはっきり映っていたのでございました。

 その刹那、ゾワーっと冷たいものが頭へ上ったかと思うと、サァーっと血の気が引いて行くのが主人にはわかりました。

 その何とも不気味な様は主人を實に不快な心地にさせたのでございます。

「ひっ、ひぃっ!」

 主人は腰が抜けてその場にひっくり返ってしまいました。。

 その足元には真っ赤な血だまりに血潮が注がれ、どんどんと広がって行くのです。

 その時、人形が僅かに、確かに動いた様に見えたのでございます。

 なんとも恐ろしい形相で人形が主人を睨みつけている様でございました。

 息子を殺害した主人はその晩、その場で自害なさいましたのが、翌日になって使用人によって見つけられたのでございました。

 遺書などはございませんでしたから、主人は息子を殺したことを悔やんで自害したとも、人形の祟りであったとも云われております。

 Hの下敷きになっていた人形は、血や手垢や油などで汚れておりましたものの、嘗ての美しさはそのまま残されておりました。不思議な事に着物についた血を落とそうとしますと、生地の滲みは取れましたものの、白牡丹だけは血で色づいて緋牡丹として残ってしまったと云います。

 この人形を作った人形作家と申しますのは、石見の国の生まれでございまして天雀と云う大層名の知れた作家でございます。天雀の生い立ちと云うのははっきりしておらず、文献にもあまり残されておりませぬ。

 分かることと申しますならば、名のある人形作家であったこと、若くして一流の技量を持っていたこと、作品はどれも人間と瓜二つであること、そして女流作家であることと、若くして亡くなったと云う事でございます。

 そしてこの人形はそんな彼女の遺作であった。亡くなる直前に完成したものでございました。

 天雀作品は他にもございますが、斯様な事例は他に聞いたことがございませぬ。

定めしこの人形には何かしらのの曰くがあったのでございましょう。

 真相を知ろうにも、今となっては昔のこと。真相は真っ赤な血潮の中へにございましょう。

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