第4話 狂愛の果て

※第四話はとても生々しい表現が多数盛り込まれております。ご注意くださいませ。



「サァテ。ではこれにておいとま致しましょう」

 涼しげな硝子の湯飲みに注がれた麦茶を、それはそれは旨そうに飲み干した親爺は湯呑みを茶托に戻してそう云いました。

「イヤァ、親爺よ。済まなかったな」

「イエ。私めも、そう云われてみれば確かに気味が悪くなって参りましたから、早く売りさばいてしまいましょう」

 親爺は一つも嫌な顔をする事無く、そのしわだらけの顔で苦笑いしました。確かにあれ程までに、生き写しか生身の人間ではないかと疑う様な人形は、美しさを通り越して寧ろ気味が悪いと思われるのも無理はございません。あの人形は魂が乗り移って居ても何の不思議も無い様な魅力とあやしさがございましたから、寧ろこの家はそう云う類の悪霊から身を護れたやもしれませぬ。

 親爺が玄関先で挨拶をし、門を出た頃の事でございました。屋敷の勝手口から何やら頭巾を被った男が、辺りを気にしながら出て参りました。それは紛れも無くHの姿でございました。

 Hの顔と云うのは既に多くの人々に知れ渡っておりましたから、Hは自分だと悟られぬ様にその顔を頭巾で覆い隠していたのでございます。

 彼の向う先。それは先ほど出て行った行商の親爺の元でございました。

 親爺の脚と云うのは老翁とは思えぬほどに速足でございましたから、日頃部屋に籠っているHの体力では到底敵わぬものでございました。

 親爺は町はずれの空き寺で一休みするのでございますが、その事をHは知っていたのです。ですから体力に構わずHは親爺を訪ねる事が可能でございました。

 案の定。Hが空き寺に着いた時、親爺は境内の階段に腰掛けて一休みしている最中でございました。

「親爺。親爺」

 Hは頭巾を脱いでコソコソと近づき、親爺にそう声をかけました。

「オヤ。お坊ちゃんではありませぬか。如何なさいましたかな?」

「親爺。おれはあの人形を買いに来たのだ」

 すると親爺は驚いたような顔をして「あの人形でございますか?」とたずねました。

「しかしあの時確かに要らぬと仰ったではございませぬか」

「實はだな。親爺の帰った後、父が矢張やはりあの人形が欲しいと云いだしてたのだ。それで父はおれに買うて来いと命じたのだ。体力が無いから追いかけるのは無理だと云ったらば、親爺は必ず此処の空き寺で休んでおるから、走らずとも歩いて行けば良いと云うのだよ。金ははずむから、如何かその人形を譲ってはくれないだろうか」

「ホゥ。左様でございますか。それはちょうど良い。私めも薄気味が悪いので早く手放してしまおうと思うておりました故、お譲りいたしましょう」

「親爺。有難う。これで定めし父も喜ぶ事だろう」

 嗚呼。もしもこの人形が誠に只の人形でなかったとしますれば、Hはかの妖艶たる傀儡くぐつに魅入られ、災の種を持ち帰ってしまうのでございます。

 人形の箱を手にした時Hの體に一瞬のうちに、何か電撃の様なものが迸ったのでございます。それは物理的に電気エレキテルが疾走ったと云う訳ではなく、Hの人形を手にした事による興奮と高揚感が混じり合ってこの様な現象を引き起こしたのでございます。

 Hはその箱を風呂敷に包んで貰い、金を支払って喜び勇んで帰って行きました。

 扨Hは人目を忍んで屋敷へ戻りますと、自室に戻り荷をとき始めました。焦るように手をカタカタと震わせながら風呂敷の結び目を解きますと桐箱が露わとなりました。Hはせわしくその蓋を取り、中敷きの布を半ば乱暴にひっぺがしますと、そこには恋い焦がれたあの人形が静かに眠っておりました。それは派手な布団に寝かされた遊女の様でございました。

 恋い焦がれた遊女を身請けする様な心地が致しました事でしょう。

 Hはそんな興奮と、高揚感が抑えきれず思わず人形を抱えあげ抱きしめました。本物の女のように香や香水の香りなどするわけでもなく、樟脳しょうのうのにおいがするだけでございました。

 その時、Hを呼ぶ声がいたしました。主人の声でございます。

 Hはこっそり人形を購入したことを見つかる訳にはいきませんから、慌ててサッと人形を箱へ納め、押し入れの中へ閉じ込めておきました。

 この日からHは益々世間の女には目もくれなくなってしまいました。

 四六時中部屋へ籠り、晩方皆が寝静まった頃になると抑えきれなくなって襖を開き、箱からあの人形を出して只管ひたすらで、精巧に作られたその體の隅から隅まで愛撫し、逢瀬を重ねるようになりました。

 体温の無い冷たい土人形でございますが、手触りがとても良く毛並みも撫でやかでございましたから、Hは完璧に造られた人形を隅々まで愛したのでございました。この時初めてHは異性への愛情を知ったのでございました。それがたとえ血のかよっていない土人形であろうと、Hにとってはそれが女そのものなのでございます。

 うるおしい彩色さいしきと柔らかそうな造形の唇。濡れたように潤んだ眼を見つめながら見せかけだけの硬い唇を吸い、弾力もない乳房の小さな膨らみを撫でまわし、秘密に溢れた股をまさぐっても女は何も喋らないのでございますが、彼にとっては彼女の體を抱ける以上のよろこびは無いのでございます。

 幼女と同じくらいの大きさに作られたこの人形は無抵抗で一言も喋らないのでございますが、Hにとってそれはそれは絶好の抱き心地の良い女なのでございます。

 造形美だけの生気の無い、人ですらないこの土人形如きにこれほどまでに愛情を注ぐ行為は、傍から見ればさぞかし気味の悪いことでございましょう。

 ですが当人にとっては至高のひと時。彼が異性が異性を求める本能と真髄は同じなのでございます。

 ただ少し、性愛の方向性が他と違うだけの事。

 女嫌いのHは生身の女を嫌い、血も肉も無い土くれの女を愛する。それも過剰なまでに愛するその姿は、まさしく異常性愛のなれの果てなのでございます。

 幼少頃から今までに至るまで、女に対して少しも興味を持つ事も無ければ性欲も無かったHは今、男としての本能に狂った様に目覚めてしまったのでございます。



 

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