第3話 傀儡

 それから三月みつき程経った頃でございましょうか。この家を一人の行商人の親爺が訪ねて参りました。しわだらけの優しそうな顔で、白髪頭にハンチングを被った、いかにもこの道数十年の練れ者の様な出で立ちの親爺は、先代の頃からこの家に定期的に出入りする馴染みの行商でございました。

 親爺は何時も小柄なからだに似ても似つかぬ大きな葛籠つづらを紺色の大風呂敷に包んで背負っておりました。Hも何度もこの親爺から玩具を買うて貰っておりましたから、籠りがちのHも、この親爺が訪ねて参った時には必ず顔を出す様にしておりました。

 先代からの馴染みでございますから、主人は親爺がやってくる時期になるといつも楽しみげに、今か今かと待ち侘びておるのです。今迄に親爺が持ってきた品と云えば、支那より渡来した薬や、高名な画家の絵画、古代の白磁器などがございましたが、この親爺は周囲より抜きん出て目利きの良い行商でございましたから、高尚な趣味を持つ主人と気が合うようでして、飛び切り信頼が厚うございました。

 主人も先代も、この親爺とは気が合うようでございましたから、定めしHにも同じ血が流れておるのでございましょう。

 この日。やけに暑い真夏の様な昼過ぎに親爺は何時にも増して大きな葛籠を、何時もの紺色の大風呂敷に包んで持って参りました。

 不思議なことに、斯様な暑さのもとにあっても親爺はいっそ汗をかかぬのでございます。畑仕事をする農民は額から瀧のように流れ出る汗を手拭いで拭いながら畑を耕し、せっせと休むことなく働くありでさえ暑そうなのに、この親爺だけはハンチングをとっても、その禿げ頭に汗一つかかぬのでございました。

 この親爺が特別妖しい人物であると云う訳ではございませんが、妙に不思議な親爺なのでございます。

 扨、この家の者は大体高尚な趣味で、骨董品を買い漁るような者ばかりでございましたが、ただ一人、それをよく思わぬ者が居たのでございます。

 それがHの母。つまりこの屋敷の奥方でございました。

 奥方はとても美しく、気高い方でございましたがその反面、神経質で、気難しい方でございましたから、屋敷の至るところにある骨董品を良くは思っておりませんでした。ですから、主人にばれぬように蔵の中の骨董品をこっそりと売り飛ばしては家計の足しにしておりました。

 いつもなら親爺は葛籠の中に数々の品を入れているのでございますが、この日は違う様で、品物は一つだけだと云うのでございます。

 親爺は客間へ通されました。この客間と云うのは十畳間の和室に赤い絨毯じゅうたんが敷かれ、その上に洋風の木の椅子や革張りのソフアが置かれ、天井からはキラキラと光るシヤンデリアが吊るされている様な、派手派手しいお部屋でございまして、これも主人や奥方の趣向でございました。

 親爺がテエブルの硝子の上に、傷を付けぬ為の大きなビロオドの布を敷き、絨毯の上で荷を解きますと、それは黒光りする大きな葛籠でございました。その蓋を開けますと、葛籠より少し小さな桐箱が入っておりました。

 葛籠より少し小さいと申しましても底の深いものでございまして、深さは三尺半はある様で、奥行きも一尺半位はございました。

わたくしめは今日こんにちに至ります迄、数多あまたの品物を求め、様々な方々にそれを買うていただきました。この道に入って早六十年。目利きには人十倍自信がございました。然しながら私めは斯様な迄に素晴らしい品を見たことがございましょうか」

 親爺はあの大きな葛籠を開き、とても老年の行商とは思えぬ程意図も簡単にその桐箱を持ち上げますと、ビロオドの布の上にゆっくりと横倒しに置きました。

「きっとお気に召しましょう」

 親爺は優しげな笑みを浮かべて云った後、精巧に合わさる様に作られた蓋を開いた。其処には中敷きの紫色の布が被せられ、どうやらそれをめくると正体が現れる様な仕組みになっているのでございます。

「親爺の目利きだ。さぞかし良いものがあるのだろう。イヤァ、私は楽しみで仕方がないよ」

 奥方の冷ややかな視線を他所に、主人は童心に帰ったような心地でそっと、中敷きを捲りました。

 その刹那、その場にいる誰もが生唾をゴクリと飲みました。

 そこにあったのは一体の人形でございました。単なる人形ではございませぬ。よわい十くらいの小さな女の子を其処へ向けて寝かせている様な心地にさせる程精巧に作られているのでございます。

 真っすぐに伸びた漆黒の黒髪は人毛の如く艶やかで、ほのかに白粉おしろいを塗った顔は対照的に白い。新月の後の三日月の様な細長く切れ長な瞳からは、見つめれば吸い込まれてしまいそうな硝子の眼球がはめ込まれております。そして何より目を引いたのは妖艶なまでに真っ赤な紅の引かれた『唇』でございました。少し笑みを浮かべたような緩やかな曲線も唇は如何にも柔らかげで何かを求めている様な艶めさを醸し出し、思わず唇を近づけて接吻してしまいたくなるような魅力を持ち合わせているのでございました。

 所詮は粘土を練って固めて窯で焼いた土人形でございますが、誰もそうだと思う者はおらず、只々その美しさに惹かれておりました。

 そして誰よりもその人形に心惹かれていたのはHでございました。人形の持つ妖艶さ、艶めかしさ、可愛らしさに

「これは天雀てんじゃくと申す、名高い人形職人の渾身の作にして、最後の遺作でございます。天雀は若くして病に倒れ世を去りましたが、残した人形はどれも珠玉なものでございまして、趣味で集めている者もおゆうございます。如何でございましょう?」

「ムゥ…見事な人形だ。私は何としてでもこの人形を手に入れたいものだ。よし。買おうじゃないか」

 主人はいたくこの人形を気に入っておりましたが、それに対して拒否を突き付けたのは紛れもなく奥方なのでございました。

「アナタ。何をおっしゃるの?私はこの人形を買うのに反対です。これ程までに人間に近い人形など見たことがありませんわ。生々しくッて気味が悪いの。お願いだからやめて頂戴」

 奥方がこの様に口を出すのは初めてございましたから、主人は驚いたようでございました。しかしながら主人もその人形を見つめておりますと、成程これはよく考えれば気味が悪いと思いなおした様で「親爺。すまんがこの人形は見送ることにするよ。よく見てみれば見るほど生しくッて見てられやしないよ」と親爺に云いますと、親爺は何一つ嫌な顔することなくウンと頷いて「へぇ。左様でございますか。では今度はまた別の物を仕入れて来るといたしましょう」と相変わらずの微笑みでそう云うと、元通り蓋を閉めて葛籠へ戻しました。

 その一連の流れで大いに失望しましたのは紛れもなくHでございました。

 何せ女に見惚れたこともないHが初めて見惚れたものでございますから、Hはこの人形が喉から手が出るほど欲しかったのでございました。購入してからならば、もしも両親が気味悪がって納屋にでも放り込んだとしても、屋敷の中にあるのならそれを心行くまで眺めて居られたものを、両親が拒んだ所為でその全ての計画が台無しになってしまったのでございました。

 この時既にHがこの人形の虜になっておることに気づくものは誰一人、行商の親爺とて気づいておりませんでした。



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