第195話 上手出し投げ


 別に偉い人の名言でもなんでもないんだけど、現実から目を背けたい酷い時は誰にも訪れるけど、そういう時こそ現実から目を背けずにしっかり直視しなければ前進する道は拓けないのだ。


 誰か偉いスポーツ選手あたりが言ったことだったら、名言集に収録されそうな言葉ではあるけど、残念ながら現実世界に何の実績も残せずに交通事故でアラフォーにして死亡してしまった俺の言葉だ。何の価値も無い。


 でも誰か過去の著名人が似たようなことを言っていそうではあるな。誰でも思いつきそうな単純な事実だし、誰でも考え付きそうな単純明快でひねった比喩も文章表現も何も無い文章だし。


 でも言っておくけどパクりではないからな。あくまでも今、現在、短いこの瞬間に俺が脳内にふと思い浮かべたことだ。


 名言なんていうのは、その内容が大事なんじゃなくて、誰が言ったかがその大部分を占める需要部分なのだ。俺みたいな雑魚が何を言っても誰にも響かない。だけど歴史に名を残すような偉人が言ったことなら、会ったことも無いような後世の人が有り難がってパクってドヤ顔で言うんだ。


 、、、、ああ、いや、もうこんな、今、する必要のないような考察をやっている時点で俺は現実逃避をしている。


 現実を見よう。


 連敗。


 もしこれが、綱取りを目指す大関だったら、初日からに連敗した時点でほぼ詰みだ。


 だが、俺にはまだ可能性の光がある。


 目の前には大きな壁、卑弥呼がいる。


 呼吸を合わせる。行司はいないけど、はっけよーい。


 呼吸。相手の呼吸、と、俺の呼吸。


 卑弥呼もまた、左手だけ土について、右手は空中に遊弋させている。


 残った。


 立った。原点に返って、二本差し狙いだ。俺は俺の得意の型で取るべきだろう。


 相手の卑弥呼は、、、、、


 消えた。いや、俺の右に。


 立ち合いに変化された、と気づいた時には遅かった。


 前の二番は、とりあえず立ち合いはぶつかり合って、それからの展開だった。


 今回、相手の卑弥呼はぶつかりさえせずに立ってすぐ変化した。


 予測していなかった俺は対応が遅れた。


 前への動きを止めて、自分の右側に向き直る。向き直ろうとする。


 そんなのアリかよ。


 もちろんアリだ。立ち合いの変化だって相撲のルールの内だ。


 卑弥呼視点から見れば、立ち合いに左に変化して左で上手を取りながら出し投げを打つ格好だった。それで俺はばったりと土俵中央に四つん這いになった。


 また負けた。またまた負けた。三連敗を食らった。


 これ完全に心理戦負けしているぞ。


 二連敗した俺は開き直って当たって来る、ということを卑弥呼のヤツや読んでいた。だからそれを利用して変化をやってきたのだ。


 手玉に取られているじゃん。


 はあはあはあはあ


 立ち上がって両手をぱちぱちはたいて土を払い落しながら、俺は粗い息をついた。


 力を出すまでもなく負けたので、息が上がっているわけではない。だけど、おちついて息して滋賀県の自然を満喫して空気を美味しくいただいているいる場合でもなかった。


「ちょ、、ちょっと、休憩にしないか。ほら、三番連続で取ったから水入りだよ」


「三番程度、稽古場だったら普通に連続で取るじゃろう」


 そういえば卑弥呼って、ぼっちじゃないのかな。稽古ってしていたのだろうか。


 それは分からないけど、それこそ、今、考えることじゃないかな。


「稽古の三番と本割土俵の三番は違うだろ。野球だってブルペンで練習で投げる100球と公式戦で投げる100球では全然疲れ方も違うっていうし」


 俺は野球の投手の経験なんて無い。けど、ファイターズの試合中継なんぞを視聴していると、解説のガンちゃんあたりが、このへんのことはしょっちゅう言及している。


「ふむ。まあ三連敗でみじめな醜態をさらしているそなたのために考える猶予を与えてやるのも一興じゃろう。なんなら、八連敗して本格的にぶざまな敗北を喫する前に、今の時点で降参しても良いのじゃ。残りは不戦敗ということで」


「降参は、しねえよ。それよりも、次からはそっちが連敗こく順番なんだから、そっちこそ降伏文書の文言でも練っておけよ」


 休憩。水入りが相手から承認されたので、俺は東の土俵から下に降りた。


 のどが渇いたわけじゃないけど、相撲のしきたりということもあり、水を一口飲んで唇を湿したい。


 でも、大相撲の土俵のように水とひしゃくは用意されていない。


 ひしゃくは、北の天に回る北斗七星か。


 水と言えば、琵琶湖の水が壁となって切り立っている絶景の中に、俺は立っている。


 あの壁の水って、飲めるのかな。


 と、思っていたら、西の土俵から降りて卑弥呼は、水の壁に両手を器の形にして突っ込んだ。引き抜くと、そこには水が貯まっていた。卑弥呼はそれに口をつけて飲んだ。


 飲めるんだ。まあそりゃ、琵琶湖って京都や大阪の水源だからな。京都や大阪が滋賀県のことを存在自体が風前のともしびとバカにしても、琵琶湖の水を止めれば困るのは京都や大阪なのだ。


 俺も真似をして、水を飲んだ。水道水じゃなく生水だから塩素消毒とかはしていないだろうけど、卑弥呼も飲んでいたし、まあ大丈夫だろう。と思いたい。リアル琵琶湖じゃなくて異世界の琵琶湖だしな。


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